著者
米家 志乃布
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2010, pp.95, 2010

本報告では、モスクワ・サンクトペテルブルク・イルクーツクでの史料調査をもとに、シベリア・ロシア極東における植民都市の建設の状況、各都市を対象とした都市地図を概観し、シベリア・ロシア極東における20世紀前半の近代都市地図の特徴について考察することを目的とする。 モスクワのロシア国立図書館(РГБ)の地図室には、ロシア各地の地図が地域別に分類されており、最近のものまで各種揃っている。そこで、1900年代前半を中心に、当該期において東シベリアの中心都市であったイルクーツク、ロシア極東の主要な植民都市であるウラジオストク・ハバロフスク・ブラゴベシチェンスクで出版された地図を、地図室内の目録で検索して閲覧・撮影した。また、サンクトペテルブルクのロシア国民図書館(РНБ)の地図室においても地図を閲覧した。ここではモスクワと同様の地図が複数確認された。しかし、地図の撮影は許されておらず、閲覧のみであった。イルクーツク大学付属学術図書館も地図の撮影は禁止、閲覧のみであった。帝政時代におけるイルクーツクの都市計画図や都市図など多くの地図資料の所蔵が確認できた。 地図の発行主体は、帝政期においては「市参事会」の発行であるケースが多かった。つまり、都市行政を担う役割の組織が、都市地図も発行していた。しかし、実際の測量、土地の区画設定や各土地の価格などの実質の土地管理は軍が行っていたと思われる。都市地図内部に軍事区域が描かれている場合と描かいていない場合があるものの、特に極東の3都市(ウラジオストク、ハバロフスク、ブラゴベシチェンスク)をみる場合、ロシアにとって「東方を征服する」ための軍事拠点であることが地図作製のコンテクストを考えるうえで重要である。軍の外部に公表しても構わない情報のみ、印刷地図として発行され、一般の市民(移民など)に公表されていたと推測できる。1922年の日本軍のシベリア撤退以後は、ソ連政府の管轄のもとで都市の復興を行う必要からも、さまざまな整備が急速に行われたことが予想できる。そのなかで、都市地図が一般向けに作製され、発行されたのであろう。1920年代頃の作製である都市地図は、いずれも地図の周囲に広告が掲載されていることに特徴がある。しかし、帝政末期のように、軍事施設の記載や中心部をとりまく周囲の開発地域の記載はなくなり、その部分を覆い隠すように各種広告が存在することが特徴である。東シベリア総督府があったイルクーツクは、極東の3都市に比べて、20世紀初頭においてはすでに都市内部のさまざまな施設の建設がすすんでいた植民都市であり、同時期の極東の都市地図に比べると、都市地図としても大型であり、中心部の周囲にある建設・開発可能地域の情報が詳細である。しかし、基本的には都市地図の作成状況は極東と同様である。 ロシアで作製された大縮尺の地域図を考えるうえでは常に描かれていない情報、隠されている情報を推測する必要がある。地図史研究でいう「沈黙」の論理を考えていくことが重要であろう。帝政末期~ソ連初期における各地域の軍事施設に関する情報は、軍事史文書館など別機関での史料調査を今後の課題としたい。

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