著者
森 正人
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2009, pp.254, 2009

本発表は、中世の武士である楠木正成が1930年代の日本においてどのように意味づけられ、彼に関する催事や事物が形作られていったのか、またそうした出来事をとおしてどのように人びとのアイデンティティが刺激されたのかを論じる。よく知られるように、楠木正成と息子正季は後醍醐天皇に対する忠誠を、命を賭して体現した人物として『太平記』に描かれているが、南北朝時代の南朝に与したため江戸時代にいたるまで朝敵と見なされていた。楠木正成の名誉回復がなされ、江戸時代末期に尊皇攘夷運動が高まると、「忠君」楠木正成は顕彰の対象となる。各地で執り行われた鎮魂祭は招魂社の設立運動にいたり、後に靖国神社と名を変える招魂社にまつられる英霊から区別された楠木正成はただ一人、湊川神社に祀られることになった。 国家を代表する偉人としてがぜん注目されるようになった楠木正成は、宮城前への銅像設置や、南北朝のどちらが正統であるかをめぐってなされた南北朝正閏論争をとおして完全なるナショナル・ヒーローの座へ登りつめていった(森2007)。したがって、楠木正成の近代に注目することで、日本のナショナリズムや国家的アイデンティティの問題の一端が明らかになると思われるのだが、この楠木正成が見せた国家的偉人への軌跡を正面からあつかった研究は実はそれほど多くない。 近代日本のナショナリズム研究は、1990年代に大きな興隆をみた。ベネディクト・アンダーソン(1997)の想像の共同体の議論を受けながら、近代史や法制史を中心に国家的諸制度の整備が確認された。地理学においては近代における均質的な国家空間創出のためのさまざまな物質的基盤が解明された。それらの研究が一段落した後に残されたのは、国家的な諸制度や観念の形成に貢献したローカルなるものの役割の検討であった。すなわち、アイデンティティであれ諸制度であれ、それらは決して国家によってのみ作動されたのではなく、地域や郷土などといったローカルな地理的範域での実践もまた国家的なものを下支えしていたことが確認されたのである(「郷土」研究会2003)。 ただし、国家的スケールに対して地域的スケールでの実践の重要性を強調するだけでは、国家と地域を二項の固定的なものと前提してしまう。国家も地域も、首尾一貫性を持つ地理的スケールではない。それらは、相互の関係性のなかで認識されるべき地理的スケールであるだけでもない。むしろ国家的スケールも地域的スケールも、後にそれと確認されるスケールでの諸実践をとおして認識される。したがって、一貫した地域も国家もなく、事後的に確認される地域的なるものと国家的なるものととらえ、地域と国家というスケールの二分法の不可能性と、それが生成されるプロセスに取り組むことが重要となろう。こうした空間への視座は、近年の英語圏人文地理学における空間の存在論の高まりと共鳴している(Massey 2003, 2005; アミン2008)。 国家/地域的なるものを、出来事をとおしてその都度に構成し直される関係的なものとすれば、国家や地域へのアイデンティティもまた、自律的な人間主体の内側からの発露とすることも、あるいは人間主体の外側に措定される権力主体からのイデオロギー的呼びかけととらえることも困難になる。すなわち、とある地理的範域に対するアイデンティティは、前提される地理的スケールの外部、人間主体の外部にある事物や自然や機械などの客体との折り重なりの中でつねに刺激され、形作られ続けているのである。アイデンティティを含む人間の感情や倫理は、つねに資本によっても多方向へ屈曲されている(スリフト2007)。 本発表はとくに1930年代に照準する。この時期、楠木正成は国家的偉人であると同時に、彼を輩出したり彼が最期を遂げたりした場では地元の英雄として取り上げられた。それは楠木正成の死後600年を祝う1935年に一つのピークを魅せた。楠木に関わるイベントは郷土を確認させる出来事であり、そのイベントは行政だけでなく新聞社やレコード会社やラジオ局などの資本によっても開催されたのである。

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CiNii 論文 -  国家的なるものと地域的なるもののはざまで:1930年代の楠木正成をめぐるいくつかの出来事から https://t.co/JLNFzxd700

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