著者
高橋 敏
出版者
スポーツ史学会
雑誌
スポーツ史研究 (ISSN:09151273)
巻号頁・発行日
vol.30, pp.41-51, 2017

群馬県下には、今日なお上州(上野国)といわれた江戸時代の在村剣術から二五代にわたって受け継がれてきた古武道が確固として命脈を保っている。高崎市吉井町に現存する樋口家と馬庭念流である。兵農分離の刀狩りで剣術はおろか武器を根こそぎ取り上げられた筈の多胡郡馬庭村に、百姓身分でありながら道場を構えて根を下ろし、周辺農村から上州一円、北関東、江戸にまで門人を獲得し、最盛期には門人が数千と豪語された一大流派を築いた。更に明治維新以降の近代化のなかで前代の剣術諸流派が剣道に収斂・統一される趨勢のなか、脈々と今日まで継承されてきた。そこには江戸時代の上州という風土と社会が深くかかわっているように思われる。本講は、北関東上州の一農村の田舎剣法から門人数千の一大剣術流派に発展した馬庭念流を手がかりに二世紀半にも及ぶ未曾有の平和な江戸時代に、身分制度の厚い壁を破って展開していった武芸について考えてみたい。<BR> 上州、関東においては、兵農分離は身分制度として断行されたが、刀狩りは実施されず、武器の所持、剣術の継承は禁止されることはなく許容された。樋口家は中世以来の在地土豪の権益を失い、公的には百姓身分になったが、私的な領域においては姓を名乗り、帯刀し、念流を伝授することは黙認された。要は在地土豪の念流を継承する郷士と馬庭村百姓の二つの顔を持つことになった。<BR> 馬庭念流は、江戸時代初頭から四代に長命にして剣技・指導力に優れた当主に恵まれ、北関東を中心に多くの門弟を集め、江戸にまで進出して道場を経営し、一大流派の結社に発展する。門人は百姓町人のみならず、高家新田岩松氏、七日市藩前田氏、小幡藩織田氏、支配領主旗本長崎氏の主従にまで門下の列に加えている。<BR> なかでも流派念流の結社としての勢力を誇示したのが有名神社の社前において秘剣を披露し、師匠以下門人名を列記した大額を奉納する儀礼であった。上野四社から江戸神田明神・浅草寺、鎌倉八幡、伊勢外宮・内宮、遠く讃岐金刀比羅宮にまで足を運び、大枚を投じ奉額している。<BR> このような現象は念流だけではなかった。千葉・斎藤・桃井の江戸三大道場と謳われた民間剣術流派の盛業に顕著のように、幕藩領主に囲い込まれ、正統とされた剣術が衰退し、民間の剣術がこれに代わって勃興していったことと軌を一にしたものであった。いわば幕藩秩序そのままの武士が独占する伝統守旧の剣術から民間の活性化された在村剣術が掘り起こされて、身分制度の枠を打破して、武芸として百姓町人までが入門、習練する時代が到来したのである。まさに戦国乱世の殺人剣から幕藩領主の子飼いの指南の剣術を経て、新たに自衛のため、修行のための武芸に生まれ変わろうとしていた。もちろん武芸の大流行は、念流が江戸から勢力拡大を図る北辰一刀流千葉周作と伊香保神社掲額をめぐって一髪触発のところまでいったように、諸流派の競合・対立を引き起こすことも多々あった。しかし、大勢は総じて流派間の共存と連携を深めていったことの方が事実である。幕府法令からは民間の帯刀、剣術は厳禁されているが、時代の武芸熱は冷めるどころか高揚し、諸流派を渡り歩く武者修行の旅が一般化していく。これを可能にしたのが諸流派間を結び、連携する一種のネットワークの形成であったように思う。そこには支配秩序に直結する武士のみならず姓名、諱まで名乗る武士風体の百姓・町人が多く含まれ、身分制度の壁を越えた一大武芸の文化ネットワークが広がっていた。<BR> 剣術、武芸の歴史といえば、権力争奪に絡む殺伐とした合戦、暗殺、仇討ち、テロといった殺人剣を類推する向きが多いが、平和の時代を背景に自己鍛錬の武芸として定着していったことを見落としてはならない。近代剣道に転換する素地はつくられていたのである。

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"武士のみならず姓名、諱まで名乗る武士風体の百姓・町人が多く含まれ、身分制度の壁を越えた一大武芸の文化ネットワークが広がっていた""近代剣道に転換する素地はつくられていたのである。" →近世の剣術。

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