著者
小島 泰雄
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2018, 2018

1.問題の所在<br><br> 深圳は中国南部、珠江デルタの先端に位置し、香港に隣接して国策として建設された都市である。1979年に宝安県から深圳市が析出され、翌年には経済特区として指定をうけ、以後、30年あまりの間に人口1000万の都市に成長するという、類い無き都市化が展開した。<br><br> 深圳は中国ではじめて農村が無くなったことでも知られる。ここで農村が無くなったといわれるのは、制度的に"無農村建制"(農村制度が無くなった)、"無農民戸口"(農民戸籍が無くなった)ことを差すが、同時に農村都市化の一般的な過程を経験したことを示す。<br><br> 本報告は、2017年夏季に行われたフィールド調査と地方誌に依りつつ、いかに深圳が農村を失っていったのかについて検討し、深圳の地域像を更新することと、珠江デルタの農村の一つの極地の形成過程を確認することを目的とする。<br> <br><br>2.万豊村の経験<br><br> 万豊村は深圳市の西北部、宝安区沙井街道に属しており、現在は万豊社区となっている。祠堂の残る旧来の集落を囲んで多様な建築群からなる住宅区と工業地区という2種の景観地域で構成されている。《万豊村史》(2001年)に描かれる万豊村の景観変化は、概略以下のようなものである。<br><br> 農地は水田より畑が多く、西の浜で牡蠣の養殖を行っていた万豊村は、1978年の香港への密航ブームに巻き込まれ、村民の半分近くが香港へ行ってしまった。万豊村の改革開放はこうした負の出発点に始まり、生産請負制の導入による専業戸が牽引する農業活性化が進められた。1982年に最初の香港資本の工場として香港フラワーの工場が進出、続いて金属加工、玩具工場の誘致に成功する。経済特区に隣接し、用地と労働力が安く得られることが立地要因となっていた。その後、"三来一補"と称される加工貿易の工場が毎年10近く増えていった。工業化は農地の転用を必要とし、一時的に外来人口の増加(1990年代末には6万人)の需要を満たす養殖業が盛んになったが、農業は急速に後退していった。<br><br> 万豊村はこの過程で新たな共有制のシステムを立ち上げ、農村開発の一つのモデルとして全国に知られるものとなった。1984年に設立された万豊股份公司は、農民が共同で投資して工場棟を建て、それを外資企業に貸し出すことで賃貸収入を得るという機構をもつ。当初は投資する村民は一部に限られたが、配当の大きさから多くの村民が参加するようになり、1988年には広東省の優秀企業の一つに数えられるまで成長し、村民は生活、福祉の両面で豊かさを享受することとなった。<br><br>3.坂田村の経験<br><br> 坂田村は龍崗区坂田街道に属し、かつて関内と呼ばれた初期の経済特区の北に隣接している。世界有数の情報機器企業に成長したHUAWEIの本部が集落の北にひろがり、丘陵斜面に並ぶ客家集落は旧来の風貌を残すが、二重三重に住宅地区に囲まれ、整備された街路を走っていると、その存在に気づくこともなくなっている。<br><br>《輝煌坂田》(2010年)によると、丘陵地帯に位置する坂田村はかつては交通条件が悪く、近くの市場町の布吉鎮まで自転車で1時間かかっていた。1980年には早くもセーター工場が進出したが、1985年にはすべての工場が撤退し、農民は特区や布吉の工場に流出していった。本格的な開発は1980年代末に始まる都市計画の実施を待つこととなった。1994年には坂田実業股份有限公司が設立され、工場建物の管理を行っていたが、2007年に坂田実業集団に改制される頃には不動産開発と管理が主たる事業となっていた。2004年には、それまでの鎮-村の農村行政制度が街道-社区の都市行政制度に編成替えされ、翌2005年には農地の国有化が終了した。<br><br>4.おわりに<br><br> 経済特区の設定は香港企業を中心とする多くの工場を深圳の農村にも進出させ、その結果、農地の転用が進み、農村の都市化が進展していった。近年、住宅建設が都市化の重要な要素となり、さらに行政制度が農村のそれから都市のものへと転換されたことで、深圳は名実ともに農村を失うことになったと整理されよう。

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