- 著者
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吉田 満利恵
- 出版者
- 公益財団法人 史学会
- 雑誌
- 史学雑誌 (ISSN:00182478)
- 巻号頁・発行日
- vol.126, no.4, pp.1-33, 2017
大正二年、司法部刷新のための五法案が成立し、全国で 312 の区裁判所の内 128 の廃止、1510 人の判事及び検事の内 232 人の休職が定められた。また、裁判所構成法に判事の反意転補を可能にする規定が追加された。本稿の目的は、この司法部大改革を巡る議論を通して、この時代における司法問題の扱われ方とその影響を明らかにすることである。<br>判検事の休職法では、本来定員が別に定められ、その身分保障に差のあった判事と検事が同列に扱われ、休職となる判検事の合計数しか規定されなかった。その結果、判事の定員が大幅に削減されたのに対して検事の定員は微減に止まった。また、検事の精選が行われ、定員の減少数を大幅に上回る数の検事が休退職処分となった。<br>休職法と裁判所構成法改正案は裁判官の独立を侵害する危険を持っていたが、区裁判所廃止という人民の利害に直接関わる問題に議論が集中したことで、議会での審議は低調のまま終わった。判事の身分保障を脆弱にする危険のある新法律・条項案が提出されても、議会で争点となりやすい他の論点の存在によって、十分に審議されない傾向があった。<br>そして、当該法案がほとんど批判のないまま成立したことにより、判事の身分保障を規定する憲法五八条二項の「職」という文言を「官」の意味であると解し、裁判「官」であることさえ免じなければ「職」を免じても良いとする解釈が、大正十年に採用された。<br>明治憲法下において司法権の独立が不十分であったのは、裁判所構成法に、裁判所に対する司法省優位の性質があったからだけでなく、行政によって漸次的に法律解釈が変更されたことや 、新法律・条項が追加されたこと、また、それに抵抗する議員や判事、在野法曹が少なくなったことにも要因があるといえる。大正二年司法部大改革は、司法省、議会、そして法曹界自身によって、裁判官の独立の形骸化が促進された事例の一つであった。