著者
洪 性珉
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.126, no.11, pp.41-65, 2017

本研究は、遼宋増幣交渉(1042年)の歴史的意義について考察したものである。興宗親政期の遼の政治的状況をみる際、欽哀皇后一族や耶律重元の動向を顧慮しなければならない。欽哀皇后の一族蕭孝穆は、その一族と興宗両方を配慮しなければならない立場にいた。欽哀皇后は、耶律重元を次期皇位継承者として支持していたため、興宗は彼を政治的な配慮のうえで厚遇し、多くの権力を与えていた。<br>重熙12年(1041)12月に、興宗は南枢密使蕭孝穆と北枢密使蕭恵と協議し、「関南の地」を取るために宋と戦争することを決めた。その際、蕭孝穆による宋との戦争への反対は確認されるが、欽哀皇后の一族による反対は確認されない。興宗は、戦争準備をすると同時に蕭英と劉六符を宋に遣わした。劉六符によって作成された遼の国書は、梁済世という人物によって盗まれて、宋に事前に報告される。遼の国書を入手した宋は、増幣でその問題を解決すると決め、富弼を遼に遣わして交渉を行った。<br>増幣交渉における各人物の立場は異なっていた。遼の興宗は、当初から「関南の地」の割譲を宋に強く求めていた。それに対して、富弼は一貫して増幣による利を説き、最終的には「増幣」で交渉を妥結することに成功した。一方、遼側の交渉担当者劉六符は、領土の割譲に拘っていなかったので、興宗の立場と異なる。これは、興宗皇帝への忠誠と同時に、一族の基盤となる南京地域への配慮も必要であった彼の個人的背景に起因する。<br>増幣で戦争局面がおさまると、遼の内部の諸部族が財物を得られる機会を失って、不満が高まる様子が確認される。これは遊牧国家における掠奪・分配行為と深く関わるものであり、遼の皇帝と諸部族の関係は、以前の遊牧君主と諸部族の関係との類似性が認められる。また、増幣交渉以降は、遼の対宋外交戦略として「威嚇行動」の駆使が見て取れる。その点で、劉六符にとって増幣交渉とは、遼の戦争準備を巧みに「威嚇行動」に転換させて増幣を導くことであった。

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