- 著者
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柏原 全孝
- 出版者
- 日本スポーツ社会学会
- 雑誌
- スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
- 巻号頁・発行日
- vol.26, no.2, pp.9-23, 2018
本稿は、2006 年にプロテニスのツアーに登場した判定テクノロジー、ホークアイの社会学的含意を考察するものである。ホークアイは、それ自身が審判に代わって判定を下す点、および判定根拠となる映像を自ら作成して示す点で画期的なテクノロジーである。しかし、それは一種のフェティシズムを引き起こす。ホークアイには不可避の誤差があることが知られているが、にもかかわらず、あたかも無謬であるかのように取り違えられ、その無謬性によって礼賛される。誤差をもっともよく認識している開発元でさえ、このフェティシズムに取り込まれてしまう。この事態が引き起こされるのは、ホークアイが動画であることが大きい。本来、判定のためにはボール落下痕とラインの関係が明示された2Dの静止画で十分なはずだが、ホークアイは3D動画に編集された映像を見せることによって、自らの圧倒的な力、すなわち、すべてを見る力を誇示する。そして、われわれはその動画を見ることを通じて、正しい判定への期待を満たしつつ、ホークアイの判定を進んで受け入れていく。こうしてフェティシズムに囚われたわれわれはホークアイがあれば誤審が起きないと信じるわけだが、ここには明らかな欺瞞がある。なぜなら、ホークアイは誤審を不可視化しただけだからだ。<br> なぜ、ホークアイやそれに類する判定テクノロジーが広がっていくのか。それは、勝負として決着を目指す有限のゲームとしてのスポーツが、テレビとの出会いによって、その有限のゲーム性を強化されたからである。その出会いは、放映権を生み出し、広告費を集め、スポーツを巨大ビジネスに仕立て上げた。その関係を支え、加速させるのがホークアイやその他の視覚的な判定テクノロジーである。スポーツのもう一つの側面、決着を先送りし続ける無限のゲームとしての側面は、こうした趨勢の前に後景へと退却している。