著者
岡田 桂
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.12, pp.37-48,106, 2004

英国や欧州におけるサッカー・リーグの試合では、時おり、男性選手同士がキスし合うパフォーマンスが見受けられる。こうした行為は、ゴールを決めた際の感激の表現として理解され、受け入れられてはいるが、通常想定される「男らしさ」の価値観からは逸脱している。近代スポーツは、その制度を整えてゆく過程で、男らしさという徳目に重点を置いた人格陶冶のための教育手段として用いられてきた経緯があり、サッカーを含めたフットボールはその中心的な位置を占めていた。それではなぜ、男らしさの価値観を生みだしてゆくはずのサッカー競技の中で、「男らしくない」と見なされるような行為が行われるのだろうか。この疑問を解く鍵は、近代スポーツという制度に内在するホモソーシャリティにある。男らしさの価値観を担保するホモソーシャリティは、異性愛男性同士の排他的な権利関係であり、女性嫌悪と同性愛嫌悪を内包する。サッカーをはじめとするスポーツ競技は、ジェンダー別の組織編成によって制度上の完全な女性排除を達成しており、もう一方の脅威である同性愛者排除のために、ホモフォビアもより先鋭化された形で実践されている。こうして恣意的に高められたホモソーシャルな絆によって、スポーツ界は通常の男らしさ規範に縛られない自由な表現が許される場となり、キスのような、通常であればホモソーシャリティの脅威となり得るホモセクシュアリティを仄めかすようなパフォーマンスも可能となるのである。つまり、こうした行為は「自分たちは同性愛者ではない」という確固とした前提に基づいた、逆説的な「男らしさ」の表出であるといえる。また、男性同士のキスという全く同一の行為が、プロ・サッカーという特定の文脈では「男らしさ」を表出し、他の文脈では正反対の意味を構成するという事実は、ジェンダーというものが行為によってパフォーマティヴに構築されるものであり、ジェンダーのパフォーマンスとそれが構築する主体 (不動な実体) との間の関係が恣意的なものであること、即ち、行為の実践によってそれが構築する主体をパフォーマティヴに組み替えてゆくことができる可能性を表しているといえる。
著者
片岡 栄美
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.29, no.1, pp.5-23, 2021-03-31 (Released:2022-04-20)
参考文献数
25

西洋スポーツが、暴力性を排除する形で発展してきたのに対し、なぜ日本の学校の体育部活動では、スポーツ選手は理不尽な体罰や暴力的支配を受容して、部活動に順応し続けるのだろうか。本稿の目的は、ブルデュ―の理論と方法を用いて、日本の体育会系ハビトゥスの特徴を、大学生への混合的手法による調査により明らかにすることである。得られた知見は、以下のとおりである。 自分を体育会系だとアイデンティティ自認する大学生は、全体の41.6%で学生の中の一つの大きなカテゴリーである。体育会系ハビトゥスの特徴は、性役割分業の肯定、勝利至上主義、権威主義への賛成傾向、伝統主義と地位の上昇志向である。 体育部活動経験者の多くが、指導者やシニアメンバーから体罰や過度の制裁をうけて、連帯責任で「理不尽な」経験をする。彼らは体育部活の1年目に「理不尽さ」を多く経験し、それを受容することで、権威に従属するハビトゥスを学習する。しかし年功序列システムにより、2年目以降は先輩としての権力を平等にもつことで、彼らの支配欲は満たされる。権力が年功によって平等に移譲される年功序列システムこそが、「理不尽さと暴力を伴う支配とそれへの服従の文化」をメンバーに伝統的慣習として継承し、体育会系ハビトゥスの再生産に寄与している。 上級生からの理不尽な要求や暴力を受容し、忍耐する理由は、そこに合理的理由として3種類の報酬があるからである。 日本的アスリートの自律性とは、管理と制裁の恐怖の中で育成された自律性であり、西洋的な意味での自己規律的な主体性とは異なる。それゆえスポーツ以外の場では、規範を破り、自律的ではなくなることも多い。スポーツ以外の体験が少ない彼らは、同質的なメンバーとの相互作用に偏り、多様な価値観を知らないまま外的権威への同調的価値を持ちやすい。
著者
角田 聡美
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.8, pp.73-85,129, 2000-03-20 (Released:2011-05-30)
参考文献数
52
被引用文献数
3 1

女子体育史研究では, 体育が女性を解放したという視点からの研究が多い。ところが, 現在の体育における男女別習が男女の身体差を前提にしているという事実は, 身体という視点からみた場合, 体育が男女の性差を肯定してきた側面を示唆する。しかし, 女子体育史研究の中で女性の身体を視野に入れた先行研究はあまりに少ない。そこで, 本研究は, 明治期における女子体育の展開について, 身体をめぐる政治という観点から歴史社会学的に分析し, 女子体育研究の再検討をする。体育に直接関わる資料からは, 女性の身体への政治に関する知見があまり得られないため, 衛生観念が女性に性別役割を固定化し, 女性の身体を男性から差異化して性的な意味を付与したという先行研究をてがかりに, 女性が中心となって発刊した, 女性のための衛生知識啓蒙雑誌である『婦人衛生会雑誌』を資料として用いた。その結果, 衛生知識の普及に伴って, 女性の身体は健康な子どもを産むための健康な母体とされた。こうした強健な女性の身体は旧来の美人像と対立していたのだが, 富国強兵政策の下, 日本人種の改良が強調されたこともあり, 体育によって女性の身体を健康にする方向へと進んだ。その過程では, 運動に適さない女性の服装, 月経, 運動する女性を揶揄する御転婆などいくつかの阻害要因が存在したが, 健康な母体を作るための女子体育は, 国家がかりで強力に押し進められた。つまり, 国家政策として女性の身体は, 衛生知識を基に体育という方法を通して, 健康な母体であることを運命づけられたのである。以上のことから, 女子体育は女性の身体に性別役割を刻印したという新たな視角を提示できたものと思われる。また, こうした女性の身体観と体育の役割を女性たち自身も支持していたことが明らかになった。
著者
小笠原 博毅
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.24, no.1, pp.35-50, 2016-03-25 (Released:2017-03-24)

イギリスのカルチュラル・スタディーズはどのようにサッカーというポピュラー文化に着目し、それを真剣に研究の対象やテーマにしていったのか。サッカーのカルチュラル・スタディーズがイギリスで出現してくる背景や文脈はどのようなものだったか。そして、現在のカルチュラル・スタディーズはどのようなモードでサッカーを批判的に理解しようとしているのか。本論はこのような問いに答えていきながら、過去50年に近いサッカーの現代史とカルチュラル・スタディーズの関係を系譜的に振り返り、その概観を示すことで、これからサッカーのカルチュラル・スタディーズに取り組もうとする人たちにとって、サッカーとカルチュラル・スタディーズとの基礎的な相関図を提供する。 その余暇としての歴史はさておき、現代サッカーの社会学的研究は、サッカーのプレーそのものではなくサッカーに関わる群衆の社会学として、「逸脱」と「モラル・パニック」をテーマに始まった。 地域に密着した男性労働者階級の文化として再発見されたサッカーは、同時に「フーリガン」言説に顕著なように犯罪学的な視座にさらされてもいた。しかし80年代に入ると、ファンダムへの着目とともにサッカーを表現文化として捉える若い研究者が目立ち始める。それはサッカーが現代的な意味でグローバル化していく過程と同時進行であり、日本のサッカーやJ リーグの創設もその文脈の内部で捉えられなければならない。 それは世界のサッカーの負の「常識」であり、カルチュラル・スタディーズの大きなテーマの一つでもある人種差別とも無縁ではないということである。サッカーという、するものも見るものも魅了し、ポピュラー文化的快楽の豊富な源泉であるこのジャンルは、同時に不愉快で不都合な出来事で満ちている。常に変容過程にあるサッカーを、その都度新たな語彙を紡ぎながら語るチャンネルを模索し続けることが、サッカーのカルチュラル・スタディーズに求められている。
著者
岡田 桂
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.27, no.2, pp.29-48, 2019-09-30 (Released:2020-10-15)
参考文献数
20

本論では、男性中心的(男性ジェンダー化された)文化として発達してきたスポーツにおいて、マスキュリニティ/男性性がどのような状況にあるかを、特にこの10数年の変化を踏まえて考察する。スポーツにおけるマスキュリニティの研究は、これまで主に男女のジェンダー格差と(男性)同性愛嫌悪を中心として行われてきた。しかし2000年代頃を境に、英米を中心とした社会で性的マイノリティの権利獲得――いわゆるLGBT主流化――が進むにつれ、男性性の最後の牙城ともいえる軍隊やスポーツの世界でも徐々に同性愛者の受容が進みつつある。一方で、2000年代以降、“女性的” 競技であるとのイメージが持たれやすいフィギュアスケート競技において東アジア系男性選手の活躍が目立っていることを事例として、グローバルに進みつつあるマスキュリニティ概念(範囲)の変化の中で、ジェンダー・イメージというものが人種や競技の序列化の中で再配置されつつある可能性を指摘する。また、マスキュリニティにとってセクシュアリティの問題(同性愛)がタブーでなくなりつつある中、逆にジェンダーの軛が相対的に強まりつつあることの問題点を、英語圏における文化的な「ジェンダー志向」を考察することによってあきらかにする。
著者
西村 秀樹
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.24, no.2, pp.5-20, 2016-10-05 (Released:2017-10-05)
参考文献数
24

大相撲は、スポーツらしからぬ部分を持つ。その最たるものは、「立ち合い」である。「阿吽の呼吸」で立つとか、「合気」で立つというように、当事者同士の相互主観的な一致の「とき」に、立ち合いは成立する。近代スポーツに見られる判定の客観的合理化の流れとはまさに逆行している。この点は、大相撲の伝統的「芸能性」と関連している。 スポーツらしからぬ部分は、明治・大正から昭和の戦前にはもっと多くあった。それらは近代的スポーツとしての未成熟さをあらわすと言えば、確かにそうであるに違いないのだが、大相撲がスポーツとして公正な勝負の論理を志向したのではなく、「祝祭」であったことが考慮に入れられなければならない。当時の国技館は、まさに「祝祭空間」であった。その「祝祭性」の充満には、近代スポーツからすればまさに未成熟に他ならないルールの「曖昧さ」や、力士の賤視される「芸人」としての身分が寄与したのである。これらが、観客を能動的な主役として熱狂させたのである。 この「祝祭」としての大相撲が「スポーツ化」していくプロセスは、興味深い。中世のヨーロッパ各地でおこなわれたフォークゲームとしてのフットボールにおいては、その近代的スポーツとしての発展の経緯は、広範囲での大規模な国際的な試合を可能にするために統一組織・統一ルールが出来上がるという内的発展の論理に求められる。それに対して、大相撲の近代化は外的・社会的状況によって推進されたのである。協会の財団法人化による品位向上・天皇賜杯認可による権威づけと、天皇制ファシズム推進による国民生活全般の「厳粛化」のなかで、大相撲の礼儀作法や観戦態度が「神聖化」されていく一方、取組や裁定にあった「曖昧さ」は排除され、公正な勝負の論理が支配的になり、ガチンコ勝負としてスポーツ化が推進されたのである。
著者
來田 享子
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.18, no.2, pp.23-38, 2010-09-30 (Released:2016-10-05)
参考文献数
25
被引用文献数
1

本稿は、女性の競技スポーツの普及について、2つの変化を通して読み解こうとするものである。具体的な検討の対象として、複数の競技種目において世界のトップパフォーマンスが競われるオリンピック大会と国際オリンピック委員会(以下IOC)における議論をとりあげる。検討する変化の第一は、オリンピック大会の参加者数、オリンピック大会で実施可能だと承認された競技や種目についてである。第二の変化は、性カテゴリーの解釈と性別の取り扱いに関する変化である。ここでは、IOCが「身体的性別とは何か、その境界はどのように設けることができるのか」について探求した事例として、二つの議論を中心に検討する。二つの議論とは、1960年代後半からの性別確認検査の導入に関するものと2004年から承認された性別変更選手の参加に関する議論である。この研究の目的は、女性の競技スポーツの普及と拡大は、性カテゴリーの解釈の変化と相互に関連するものであったことを示すことである。 戦後、女性の競技スポーツの拡大と普及は、戦前には「女性向き」の改変が必要であるとされた競技が社会に承認されることによって前進した。この前進は、IOCが1960年代後半以降に性別確認検査の導入を検討した時期と重なっていた。また、「男性向き」の競技であるとされ、女性が実施できなかった競技には、1960年代以降に女性たちが挑戦をはじめた。彼女たちの挑戦がオリンピック大会において認められ、女性のための競技スポーツが拡大したのは、1990年代であった。 これと同じ頃、性別確認検査の廃止と性別変更選手の参加承認が決定された。これらの決定は、競技スポーツ界が1)性カテゴリーの境界は医学的に決定が困難で曖昧なものであること、2)性カテゴリーは越境可能であること、という2点を認めたことを意味する。これらの決定は、スポーツと「性別」をめぐる状況をより複雑にしている。競技をする身体にとって、実際のところ重要なのは、競技のパフォーマンスに有利さをもたらすようなテストステロン等の性ホルモン分泌量や骨格などのいくつかの諸要素のどこに線引きをするかだという現実を医学的検査はほのめかしつつある。その意味で、性カテゴリーを峻別した競技とは、もはやフィクションに過ぎないのかもしれない。
著者
高橋 豪仁
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.2, pp.53-66, 1994

本研究の目的は、スタジアムにおけるプロ野球の集合的応援には、どのような型が繰り返し行われているかということを儀礼の観点から明らかにすることである。広島東洋カープの応援を事例として、広島市民球場で行われたナイトゲーム9試合を観察し、応援行為に共通して見られる型を見い出し、そこで用いられている応援のリズム・パターンを北沢の理論を援用して象徴=構造論的に検討した。この研究によって次のことが明らかになった。(1) スターティングメンバー発表時の応援、1回表前の選手のコール、攻撃前の三三七拍子や7回攻撃前の風船飛ばし等、ゲームの時間や空間の境界をしるしづけるものとして、応援がなされていた。また得点、出塁、アウトを取る等のゲームの状況に合わせて、一定のパターンで、太鼓や鐘が打たれ、トランペットや笛が吹かれ、メガホンが打ち鳴らされた。応援行為の定式化と反復性が可能となるのは、スポーツの進行そのものが特定のルールによって秩序づけられていることによる。(2) 集合的応援行為において応援団は重要な役割を果たしていた。ライト側応援団、センター側応援団、レフト側応援団は、各選手のヒッティングマーチを互いにタイミングを合わせて演奏した。応援団はフィールドからのゲームの進行状況に関する情報を用いて、観戦者たちの集合力を喚起していた。(3) 応援で用いられるリズムの基本型は、農耕儀礼で用いられる「ビンザサラ」のリズムと同じであった。また、リズムの型は3拍と7拍が核となり、女性のジェンダーを表象し、現世から神々への報告である「打ち鳴らし」の形態をとっていた。このことは、プロ野球の応援において、豊饒を願う農耕儀礼と同じように、自分のチームの勝利をかなえようとして行う、日本の神話的思考に基づく呪術的な行為が表出されているということを示唆しているのかもしれない。
著者
西山 哲郎
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.22, no.1, pp.51-60, 2014-03-30 (Released:2016-07-02)
参考文献数
23
被引用文献数
4

本稿では、日本のスポーツの場に根強く残る体罰の問題について、直接的な批判ではなく、体罰容認論からアプローチして解決の糸口を考えてみる。世界的に人権意識が高まり、日本でも教育の場で体罰容認論を主張することはほぼ不可能となっているのに、スポーツの場ではコーチ側だけでなく、選手やその保護者の側にも許容論がなくならない。その理由は、ここ日本でスポーツ活動を通じて達成が期待されている「人間の成長」や「社会化」が、諸外国とは違った発展を遂げてきたからではないだろうか。 日本のスポーツの場で、体罰が容認される際によく見られる言説は2種類に分類できる。ひとつは「礼儀作法や上下関係を守るため」で、もうひとつは「選手個人では乗り越えられない壁をコーチとの共生関係を利用して乗り越えるため」である。両者に共通するのは、競技スポーツでの業績達成より組織の維持を優先する〈集団主義〉と、自他の境界を曖昧にして、言語より身体的コミュニケーションを発達させる〈心身一元論〉であった。 日本の体罰容認論は単に伝統的なものではなく、平成時代に入ってからの高校や大学受験におけるスポーツ推薦入試枠の拡大の影響でむしろ強化されてきた。しかし、グローバル化の深化などによって、社会で求められる人材像に変化が見られる今、日本のスポーツ界も体罰を許容しない育成制度を模索し始めている。

12 0 0 0 OA 特集のねらい

著者
西山 哲郎
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.20, no.1, pp.3-4, 2012-03-25 (Released:2016-09-06)
参考文献数
3
著者
牧野 智和
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.25, no.2, pp.21-37, 2017-09-30 (Released:2018-10-15)
参考文献数
37

近年の「身体」をめぐるベストセラーに注目すると、以前からみられるダイエット関連の書籍に加え、開脚、体幹、ふくらはぎといった特定の身体部位に注目し、それらへの働きかけによって人生の諸問題が一点突破的に解決するとする書籍をいくつかみることができる。このような身体をめぐる想像力はいかにして生まれたのだろうか。また、これらのうち体幹に関する書籍は、サッカー選手の長友佑都がトレーニングと自己啓発を地続きのものとして語るものだったが、このような身体をめぐる想像力は彼もしくは制作者の独創性によるものと単純に捉えるべきだろうか。本稿ではこのような身体をめぐる想像力に関する疑問を追究していく。 まず特定の身体部位への注目については、女性向けライフスタイル誌『an・an』を分析対象として、その身体観の変遷を追跡した。具体的には、身体に関する「モノ」の消費、美の「心理化」が目指された1980・1990 年代を経て、2000 年代中頃から身体的「不調」の解消、体内の浄化が同誌の主たる関心になり、それが2010 年代に特定の身体部位の調整を通して心身の悩みを解消しようとする特集が陸続と展開することになる。これらから、近年のベストセラーは、大衆的な身体をめぐる想像力の系譜上に位置づけうることになる。 次に、スポーツ関係者による自著を素材に検討を行った結果、やはりこれも長友らの独創性というよりは、戦後以来の系譜をたどることのできる、スポーツへの考え方とビジネス一般についての考え方を節合する言説の展開のうちにその想像力を位置づけうると考えられた。身体をめぐるこうした想像力の志向はともに、自らの身体を自らケアし、調整していくことを促すとする、現代的な自己統治の議論に収めることができる。だがおそらく重要なのは、包括的な統治論よりも描写をダウンサイジングさせたところでの、統治技法の具体的な展開や分散をより精緻に分析していくことだろう。
著者
堀田 文郎 松尾 哲矢
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.31, no.1, pp.83-99, 2023-03-30 (Released:2023-04-26)
参考文献数
19

本稿はある個人がボディビルダーとなり、ボディビルへと専心していく過程とその論理について検討したものである。先行研究ではこれまで、生活の全てをボディビルに捧げるというような極端なまでの専心性をもってボディビルダーがボディビルに身を投じる様相が報告されてきた一方で、そのような専心性が招来される機制については十分に論じられてこなかった。そこで本稿は、ある個人がボディビルへと専心していく過程とその論理を明らかにすることを目的とし、ボディビルダーという存在の身体的次元における変容、特に身体的経験に着目しつつ検討を行った。 その結果、第一に、調査協力者らは結果が確約されない不確実な現実において、自身の努力に必ず成果をもたらしてくれる筋肉に対し「筋肉は裏切らない」という心的態度を形作り、それを動因にボディビルへと参入していることが明らかになった。 また第二に、ボディビルへと参入した彼らは、筋肉を発達させるために自身の身体の反応をつぶさにうかがい、それに準じて生活を規律するようになること、ここにおいて身体はその反応を介して生活に絶対的な規範を授ける超越的な他者としての機能を果たすようになることが明らかになり、以上の過程において調査協力者らは生活をボディビルへと収斂させ、ボディビルへと専心していったと推察された。 そして第三に、身体の反応に敬虔に従うようにして自身の行為を規律するボディビルダーの営為は、「こうでなければならない」という絶対的な指針が存在しない不確定な現実の中に、価値や行為に関する規範を生み出し、調査協力者らの生活、さらには人生に確固たる意味と目的を産出するという秩序化の機能を果たしていることが示唆され、ボディビルへと専心すればするほど自身の生活、そして人生の意味が明快で確実なものとへと秩序化されていくというこの論理こそ、ある個人がボディビルへと専心していく論理であろうと推察された。
著者
深田 忠徳
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.19, no.2, pp.49-60, 2011-09-30 (Released:2016-09-06)
参考文献数
15
被引用文献数
1

本研究は、スタジアムにおけるサポーターの観戦享受に焦点を当てる。各クラブや各地域によって、サポーターの観戦享受の仕方は多様である。とりわけ、サポーターグループに所属するメンバーは、スタジアムにおいて他者との相互作用を通してサッカーを観戦している。本研究の目的は、そうしたサポーターが互いに構築する関係性に関する「相互作用」の特質性を明らかにすることである。 調査対象は、アビスパ福岡のサポーターグループにおいて最も熱狂的とされる「ウルトラ・オブリ」とする。本研究では、2005~2009シーズンに開催された「アビスパ福岡」ホームゲームを対象としたフィールドワーク、「ウルトラ・オブリ」の創設者であるグループリーダーへのインタビュー調査、グループメンバーへの質問紙調査を実施した。それらの結果を踏まえ、グループの組織体制及び集団特性を抽出して、スタジアムにおけるメンバー間の相互的関係性を考察した。 「ウルトラ・オブリ」の活動をより具体的に描写するために「組織を形成する基本特性」と「応援パフォーマンス」の二側面から考察した。本研究では、サポーターの応援活動に関する分析を通して、彼らが構築する「連なり」の関係性について明らかにした。それは、他者との不即不離を特徴とした相互作用の形態である。サポーターは、そうした特質的な相互作用を介した関係性を構築してサッカーを観戦している。
著者
谷口 雅子
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.75-86,152, 2003-03-21 (Released:2011-05-30)
参考文献数
39

本研究は、スポーツが移入された明治・大正期に注目し、規範の生成という観点からみた、スポーツの場におけるジェンダーの生産・再生産の過程を明らかにすることを目的とする。その際に、これまでのセックス/ジェンダーという二元論的思考ではなく、男あるいは女というカテゴリーの生成自体を歴史的・政治的出来事として捉え、むしろそれが起きた状況やその効果を分析の対象とする。そして、そもそも男と女という区別は、妥当/非妥当という形で他者から教育されたものと考える。妥当/非妥当の形式による区別の操作という意味での規範の生成過程については、身体どうしのコミュニケーションから超越性が生じ社会的な意味や規範が定まっていくというプロセスに関する大澤理論に依拠している。分析の結果、スポーツの逸脱性を抑制する上で男女を差異化する必要性が増した時、それぞれの行為を限定する言説が形成され、ジェンダーが生産されていった過程が明らかになった。また、スポーツを教育的に行うことは、他者との直接的コミュニケーションから生じる志向性の連鎖から、行為の妥当性を一致させることが容易になり、ジェンダーが再生産されていく非常に有効な場となり得ることが明らかになった。
著者
海老田 大五朗 杉本 隆久
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.28, no.2, pp.9-25, 2020-09-30 (Released:2021-10-15)
参考文献数
38

本研究は、スポーツの記述についての、現象学から影響を受けた社会学の一分野であるエスノメソドロジー研究である。本研究の目的はスポーツを記述するときに、いわゆる身体知とされて他者から知ることができないとされることなどが、実際には記述の可能性に開かれていること、そしてこの記述可能性は私秘的なものではなく、そのスポーツに親しむ者であればだれでもアクセスできるものであることを、放映されたスポーツ番組にもとづきあきらかにすることである。 本研究では、不可知とされがちな領域を、「メディア的環境要因によるアクセス困難性」によって不可知とされがちな領域と、選手の内面的なものとされることで不可知とされがちな領域の2つに区分し、それぞれの領域におけるスポーツの記述と理解について分析した。その際、記述や理解のための参照リソースに焦点をあてた。前者はサッカー実践になじんでいるものであればだれでも知っているような規範や実践が主な参照リソースになっており、後者は瞬間的・反応的動きが可能になる理由を、「予期」や「確信」といった概念と結びつけられることで理解可能になっていることをあきらかにした。 本誌特集テーマと関連する「スポーツ指導の現場に役立つスポーツ社会学を構想する手がかり」として、このような分析によってえられる記述の位置づけについても考察した。本稿では、理解というものを身体的理解と概念連関的理解にわけて再定式化し、これら相互の翻訳可能性こそがスポーツのプラクティス(練習や実践)の源泉になることを示した。
著者
柏原 全孝
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.4, pp.51-62, 1996-03-19 (Released:2011-05-30)
参考文献数
11

プロレスはなぜスポーツではないのか。現実にプロレスはスポーツとしての扱いをされることはほとんどない。外見上はいかにもスポーツであり,「プロスポーツ」上として認知されるのにふさわしい人気規模をもっているにもかかわらず, プロレスはスポーツではない。この問題に, プロレスの内的特性から引き出された解答を与えることは簡単ではある。「プロレスは八百長だ」と言い切ってしまえばスポーツとして扱われない解答を得られたかのように錯覚できるからである。しかし, それではプロレスを真に論じたことにはならない。プロレスを「演技」という側面で捉えたところで, 現実にはプロレスが「芸能」として扱われたりしないからだ。すなわち, プロレスがスポーツでも芸能でもない根拠を見いだせない限り, プロレスを論じたことにはならない。そこで, プロレスを外的に, すなわちスポーツの側から位置づける論理を検討する。近代スポーツ成立のメルクマールをルールの明文化という点において捉えることで, 我々は近代スポーツの特有の困難を発見する。それは, 客観的でなければならないはずのルールが, その正反対の性格, 恣意性と偶然性を生まれながらもっていることである。この外傷的要素を抑圧することでルールは権威とともに現れることができる。ところが, 抑圧された恣意性と偶然性はルールを適用する場面において, レフリーの判断, 振る舞いを通じて再び現れる。プロレスにおいても, レフリーの判断, 振る舞いを通じて恣意性と偶然性が現れる。その意味でプロレスは完全にスポーツと同一である。しかし, プロレスはレフリーが過剰に恣意的に振る舞うことで, スポーツにおいて嫌悪される恣意性と偶然性の出現を露骨に暴露する。つまり, プロレスはスポーツに特有の汚点を公然と見せつけるがゆえにスポーツから排除されるのである。そして, プロレスはこの過剰なまでのスポーツ的性格ゆえに, 芸能とも見なされないのである。
著者
磯 直樹
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.19, no.1, pp.73-87, 2011-03-20 (Released:2016-09-13)
参考文献数
50
被引用文献数
1

ブルデューはスポーツに長く関心を抱いていたが、それについて論じた論稿は3つしかなく、スポーツ社会学について体系的な研究を残したわけではない。にもかかわらず、フランスのスポーツ社会学にはブルデューが多大な影響を及ぼしてきた。本稿では、このようなブルデューとスポーツ社会学の関係について考察する。 ブルデューがスポーツについて問うたことは、その独自の社会学と深く結びついている。ブルデューはスポーツの歴史的・社会的条件は何かと問い、各々のスポーツ種目をめぐる実践と消費の分析に関心を抱いていた。また、スポーツに固有の空間の特性について考察を試みた。こうしたブルデューの問題関心は、彼の社会学を支えるいくつかの概念、例えばハビトゥス、資本、界、社会空間などとつながっている。ブルデューのスポーツに関する問題提起を受けつつ、その社会学をスポーツ研究に応用したのがポシエロやドゥフランスであった。彼らによって、ブルデューの社会学を応用したスポーツ社会学の体系が構想されていった。つまり、「ブルデュー派」スポーツ社会学は、ブルデュー自身によってではなく、彼に近いスポーツ社会学者たちによって担われていたのである。 ブルデュー自身とスポーツ研究の関係は限定的であったため、ブルデューの社会学を従来とは違った方法でスポーツ研究に応用することは十分に可能である。そうした新しい応用の方法については、一方ではブルデュー自身がオリンピック論で示したような国際的・グローバルなスポーツ研究が考えられ、また一方では、ヴァカンがシカゴの黒人ゲットーで行ったボクシングのエスノグラフィのような生身の人間と向き合う局地的な研究が考えられる。ブルデューの社会学を部分的に受容することももちろん可能であり、スポーツ社会学においてブルデューを受容する方法は、各々に自由な選択として開かれている。
著者
山口 理恵子
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.18, no.2, pp.39-52, 2010-09-30 (Released:2016-10-05)
参考文献数
22

「ジェンダー論的まなざしと身体のゆらぎ」を主題とする特集の一論考に位置づけられる本稿は、まず、スポーツ・ジェンダー研究がこれまで「まなざし」を直接的にどのよう論じてきたのかを明らかにするため、スポーツのメディア表象を対象とした先行研究を手がかりとする。スポーツ・ジェンダー研究のメディア批評は、これまでメディアの送り手を「男の眼差し」と措定し、女性アスリートの女性性を強調するメディアのジェンダー・バイアスを批判してきた。この「男の眼差し」は、「見る男性」と「見られる女性」という非対称な関係図式に基づくものであるが、インターネットの普及やスポーツ・マーケティングの席巻などにより、「男の眼差し」を論拠とする視座では捉えきれない現象――消費し「見る」女性、「見られる」男性――が広がっている。多様な現象を捉えず、スポーツ・ジェンダー研究が「男の眼差し」を採用するならば、それは皮肉にも、男女の非対称な二元化を批判してきたスポーツ・ジェンダー研究が、その二元化に固執しているという「まなざし」を詳らかにしてしまう。 今日のスポーツ界は、多様化し、錯綜し、階層化している。それを顕著に例証しているのが、セクシュアル・マイノリティの位置づけである。一部のセクシュアル・マイノリティは、厳密な条件の下にオリンピックへの出場が許可されるようになった。しかしそれは、セクシュアル・マイノリティを包摂する規定のようでありながら、物質的な身体の改変・加工を強要するものであった。またそれは、政治的、文化的、経済的な力によって左右され、セクシュアル・マイノリティの階層化を招く可能性がある。ジェンダーとそれ以外の因子とが複雑に絡まり合ったスポーツ界を批評するために、ジェンダー論的「まなざし」の重要性と精緻化がこれまで以上に求められている。
著者
石坂 友司
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.115-127,155, 2003-03-21 (Released:2011-05-30)
参考文献数
65

明治44 (1911) 年に新聞紙上で繰り広げられた「野球害毒論争」は我が国の近代スポーツの受容に際して, 多数の教育家・知識人がそのあり方について意見をたたかわせた歴史的意義を有する論争である.本稿はこれまで野球史上に位置づけられて論じられることの多かったこの論争を,我が国の教育制度を特徴づける学歴主義の整備・拡張という文脈からとらえ返す試みである. 本稿では以下のような考察を試みた.第一に, この論争の背景を当時の教育制度の整備・拡張というコンテクストに結びつけて論じた. そこでは進学の困難さと智育 (試験) 重視のメカニズムが一つの教育問題として議論されていたことを示した. その一方で, 運動を行うことが学業との関係から弊害として認識され, 野球が管理・統制の対象として把握される背景を明らかにした.第二に, 論争は官・私の対立という側面をもち, 官立の教育者による野球排斥論は, 当時台頭していた私大への批判の論理から展開されていたことを明らかにした. これに対する私学の応戦は, 学歴主義の制度化に抗う一つの差異化戦略であったことを示した.以上のように, 論争はP. ブルデューの文化的再生産論の視角から, 文化の「正統性」をめぐる象徴的闘争という側面をもつ「教育論争」として定立していたことが論じられた.
著者
ケリー W.W. 宮原 かおる 杉本 厚夫
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.1-12,146, 2003-03-21 (Released:2011-05-30)
参考文献数
16
被引用文献数
2

この論文は、近代スポーツに潜む深遠なアイロニーについて論じる。それは、スポーツ場面において、われわれの多くがしばしば経験する勝利ではなく負けについて、あるいは成功を味わうことではなく、敗北に直面することについてである。勝利の満足ではなく敗北の失望は、プレーヤーにも観客にも共通している。本論では負けることに関して大まかに3つのタイプに分ける。ひとつは絶えず必要に産み出される敗者のような「日常的な敗北」、そして、解雇、放出、辞職といったような完全な失敗としての「致命的敗北」、さらに前二者の中間にあって、負けを繰り返す「反復的敗北」である。反復的敗北は受け入れることと説明することが最も難しい敗北である。地域の絶大なる人気を誇るが負けてばっかりの大阪プロ野球チーム、阪神タイガースを事例として、プレーヤーとファンが如何にして反復的な敗北を捉え、調整して、そして受け入れるのかを、いくつかの要因によって分析する。これらの要因には、多くのスポーツに共通の要因、スポーツとしての野球に特有な要素、日本の野球に特有な要因と阪神タイガースに特有の言いわけを含む。著者は苦々しい敗北という結果にもかかわらず、人々はプレーし続け、また見続けるという文化的に屈曲させられた言いわけと構造的なパターンのセットを識別しなくてはならないと考える。そして、さまざまな場面で「敗北の論理」は単一の要因によって説明されるものではなく、複合的なモデルによって説明されるものなのである。