- 著者
-
馬場 哲
- 出版者
- 東京大学大学院経済学研究科
- 雑誌
- 経済学論集 (ISSN:00229768)
- 巻号頁・発行日
- vol.82, no.2, pp.2-22, 2018
<p>本稿は,1906~1907年に,議会の外部で繰り広げられたイギリス都市計画運動の展開過程とその特質を明らかにすることを課題とする.この運動についての研究は,田園都市協会(GCA)の活動に関心が集中する傾向があるが,他の様々な団体との協力と対抗のなかで運動が展開したことに注意する必要がある.1906年7月にバーミンガムのカウンシルで都市計画立法を求める決議が出されたのち,同年秋にさまざまな会議で開かれた.いくつかは都市自治体協会(AMC)主導のものであり,バーミンガムのカウンシル議員のJ・S・ネトルフォールドは,AMC理事会の委託を受けた都市計画法案のためのスキーム案の作成を主導した.ネトルフォールドは,全国住宅改良評議会(NHRC)が後援した10月27日のミッドランド会議でも議長を務めたが,これには『ドイツの範例』の著者T・C・ホースフォールやNHRC会長のW・トンプソンも出席していた.そして11月6日にトンプソン,ホースフォールら17名からなるNHRCの代表団が首相H・キャンベル=バナマンと地方行政庁(LGB)長官J・バーンズを訪問し,「住宅・都市計画改革の包括的プログラム」を提示した.また1907年8月7日にはAMC代表団が首相・LGB長官を再度訪問したが,その中心はネトルフォールドであった.そして10月25日に田園都市協会(GCA)が準備しロンドン市長が主催したギルドホール会議が開催され,関係機関や専門家団体の代表が250人以上参加したが,この会議にも,トンプソン,ホースフォール,ネトルフォールドはそろって参加した.イギリス都市計画運動は,この時点でNHRC,AMC,GCAが人的にも重なりながら連携してひとつのピークを迎えたとみることができる.また,この過程でNHRCとAMCは,GCA以上に重要な役割を果たしたと考えられる.ドイツ流の都市計画の重要な手段であった自治体による土地の購入について,ネトルフォールドはそれを都市計画から切り離すという現実的方針を提案するにいたったが,この点については異論もあった.しかし,参加者は全員一致で,政府が都市計画の法制化を約束することを歓迎する決議を出し,舞台は政府と議会に移った.こうして,イギリス最初の都市計画法である1909年住宅・都市計画等法成立への道が開かれることになった.</p>