著者
ギッツォーニ ルチアーナ
出版者
東京芸術大学
雑誌
東京藝術大学音楽学部紀要 (ISSN:09148787)
巻号頁・発行日
vol.20, pp.A1-A13, 1994

C.シーヴォリは1815年10月25日ジェノヴァに生まれた。5歳でヴァイオリンの稽古を始め12歳でデビュー、N.パガニーニに「私の弟子と呼べる唯ひとりの人」と言わせるほどの力量で、その直後、パリで当時17歳のリストと共演して注目を集めた。1836年から5年間カルロフェリーチェ劇場で第2ヴァイオリンの主席奏者を務めた後、1841年から46年にかけてヨーロッバ各地を廻り著名な音楽家たちと共演しながら精力的な活動を展開、行く先々で大成功を修め、パガニーニの芸術の後継者と目されるに至った。ライプツィヒ滞在中にはF.メンデルスゾーンから交友を求められ、後に≪ヴァイオリン協奏曲ホ短調≫のイギリス初演を依頼されている。オペラ・コミック劇場でパガニーニの≪ヴァイオリン協奏曲第2番ロ短調作品7≫演奏の際指揮をしたベルリオーズは、シーヴォリの「イントネーションの正確さ、音色の美しさ、弓のしなやかさ」に舌を巻き、「大胆かつ巧み、情熱的で勢いにあふれ、表現力が豊かで天賦の才に恵まれている」と絶賛している。アメリカへ渡ったのは1846年であった。ジャマイカで黄熱病に感染したものの一命をとりとめ、1850年まで北アメリカの67都市からキューバ、リマ、リオデジャネイロその他の地へ好評のうちに公演を続けた。さて室内楽の分野では既に1834年にロンドンにおいて弦楽四重奏の演奏でデビューを果たし、1845年から46年の間にはベートーヴェン四重奏団の一員として、彼の弦楽四重奏の全作品を網羅した初の完全演奏を行っていた。さらに良い共演者と知り合い様々な編成で活発な活動を繰り広げたのは1851年から53年のことである。その後、個人的な不幸に見舞われながらも音楽に邁進、数々の栄誉に輝いた。ナポレオン3世を筆頭に御前演奏もしばしばで、ローマでは非公式に教皇に謁見した。受勲は五指に余り、1868年にシーヴォリに捧げられた劇場は今もフィナレマリーナに見ることができる。G.ヴェルディとの交際は1875年に始まり、翌76年には≪弦楽四重奏曲ホ短調≫のパリ公演の演奏を依頼された。作曲にも意欲を示し、二つのヴァイオリン協奏曲、有名なオペラの主題による変奏曲等その数は50にのぼるが、現在残っているのは≪グノーのファウストの主題によるヴァイオリンとオーケストラの為の幻想曲≫のみである。1880年代になると、各公演が好評だったにもかかわらず彼特有の激しい生活は影をひそめた。しかし病床のガリバルディを音楽で慰めたり、1887年ロッシーニの遺体遷移式の際にG線上で≪モーゼの祈り≫を奏でるなど、演奏活動は衰えを知らなかった。1892年、生まれ故郷ジェノヴァで好評裡に終えた演奏会を最後に自ら引退を決意、以後自宅で親しい友人たちと音楽を楽しみつつ余生を送った。パリ旅行中に病に倒れジェノヴァへ戻ったシーヴォリは、甥たちの手厚い看護も空しく1894年2月19日朝、帰らぬ人となった。死の2カ月前の手紙には、「ベートーヴェンの≪おおサルターリス≫をヴァイオリン用に編曲し、全部のヴァイオリンの調子を合わせました。それをいつ使えるか、神様だけがごぞんじです」と記されている。生涯独身を通し、音楽に情熱を傾け尽くした一生だったと言えるだろう。