著者
武末 祐子 タケマツ ユウコ TAKEMATSU YUKO
出版者
西南学院大学学術研究所
雑誌
西南学院大学フランス語フランス文学論集 (ISSN:02862409)
巻号頁・発行日
vol.57, pp.1-46, 2014-02

古代ローマのネロ皇帝の黄金宮に描かれていた装飾が、ルネサンスイタリアで発見されるやラファエロによってヴァチカン宮殿のロッジアに応用され(図1 )、そのロッジアがエカテリーナ2 世の望みでロシアのエルミタージュ宮殿に再現され(図2 )、19世紀のヨーロッパでは新古典主義建築様式に広く適用されるという歴史をたどるグロテスク装飾は、鉱物、植物、動物、人物が混じりあった形態の美しさ(あるいは奇異さ)を特徴とする。建物の壁や天井、窓枠などに描かれた(あるいは埋め尽くされたhorror vacui)模様である。このハイブリッドな幻想的世界を生み出す装飾に魅かれた18世紀イタリアの建築家・版画家がジョヴァンニ=バティスタ・ピラネージ(1720─1778)である。ルネサンスやクラシックという言葉が、過去に対して新しい目が向けられたときに誕生するように、グロテスクという言葉も、古代ギリシア・ローマからヨーロッパ中世へ何らかの形で伝えられている伝統的装飾を、別の目で発見し認識したときに現れた言葉である。古代ローマの帝政時代に発展した壁画装飾を、ルネサンスイタリアの芸術家たちが偶然に地下宮殿から発見し新しい目で観察し、15、16世紀の芸術に導入していったことは、周知のとおりである。グロテスク模様は建築や庭園、あるいはタペストリーなどに活用され、フィリップ・モレル1 が研究するようにヴァチカン宮殿、フィレンチェのウフィツィ宮殿、マントバのテ宮殿、ローマ郊外のティボリのエステ荘などイタリアでは、ルネサンスからマニエリスム時代にかけて隆盛を極める。バロック・ロココ時代にはより洗練されていく。グロテスク模様が、18世紀終わり頃から19世紀にかけて一般名称としてのアラベスク模様に包含され吸収されていくまで、グロテスク模様という言葉は使われ続ける。このような時代と環境に馴染みながらピラネージは、建築と装飾、そして版画制作に独創的な才能を発揮する芸術家である。ピラネージは、ローマの古代建築物や近代建築物を題材にした多くの版画を出版するが、アヴェンティーノの丘にたつプリオラート教会建築に携わる一方、廃墟を中心とした都市風景に関心を持ち、古代ローマの遺構に関する研究と分析を行い版画制作をした。したがって建築事業、遺跡の測量的(考古学的)考察、廃墟の風景版画出版までその活動範囲は広い。特に版画制作はピラネージが選んだ彼の才能に最も適した表現方法であった。グロテスク装飾とピラネージの関係は、あまり語られてこなかった。グロテスク模様の歴史を起源前1 世紀の古代ローマ帝政時代から始め、中世の写本装飾enlumineurs に言及し、19世紀のロートレックまでを射程にいれたアレッサンドラ・ザンペリーニの『グロテスク装飾』の中では、晩年のピラネージの暖炉装飾が新古典主義様式として取り上げられている。「ジョヴァンニ=バティスタ・ピラネージの美学論の重要性と特に根本的な貢献を過小評価することはできない。『グロッテスキ』とタイトルがつけられた彼のエッチング作品で、廃墟の偉大さの感情が優っているとしても、彼の後の作品、特に建築論と暖炉装飾芸術論Diverse Maniere d'adornare icamini は創作の独立性、開かれたシンタックスと複数の考古学的スタイルの混交の重要性を主張している。」3我々に興味深いと思えるのは、ピラネージの初期の作品に『グロッテスキ』と題された4 枚の版画作品があり、それと晩年の暖炉装飾作品では大きな違いがあることである。「ヴェネチアの建築家」と自称するピラネージはグロテスク装飾をどのように解釈したのであろうか。ネロ皇帝のドムス・アウレアで発見されたグロテスク模様が各国の宮殿建築に適用され洗練されていくのと並行し、再び古代ローマの廃墟から出発し、独自の表現を見出し、19世紀に橋渡したピラネージのグロテスク装飾解釈を検討したい。18世紀ローマの建築と廃墟の風景は、グランドツアーでローマへ旅行するイギリス人たち、アカデミーの芸術コンクールで優秀な成績を収めてやってくるフランス人の芸術家たち、フランドル、オランダ、ドイツなどからやってくる貴族や芸術家たちに広く好まれる。ピラネージはそのようなイタリアブームのただなかにいた。ピラネージと関係を持った、あるいは影響を受けた芸術家、批評家、文筆家は数多い。フランス人画家ユベール・ロベール、クレリッソー、フラゴナールを始め、シャール、ド・マシー、ドラフォース、ルジェなど1976年に刊行された『ピラネージとフランス人たち』4 には多くの18世紀芸術家たちとピラネージとの関係が研究されている。また、18世紀の古代ギリシア・ローマ建築様式論争においては、『建築試論』(1753)のマルク・アントワーヌ・ロージエ、『ギリシア美術模倣論』(1755)のヴィンケルマン、『ギリシア最美の古代建築の廃墟』(1758)のジュリアン・ダヴィド・ルロワなどのギリシア建築擁護派に対して、ローマ建築の熱烈な擁護者としてピラネージは論争の渦中にいたこともよく知られている。イギリスにおいてピラネージは、最も影響力をもった。1757年、37歳の頃、ロンドン王立古物研究家協会(のちの考古学協会)の名誉会員になる。ジョン・フラックスマン、ホラス・ウォルポール、ウィリアム・チェンバーズ、ロバート・ミルン、ジョージ・ダンス、ロバート・アダム、ジョン・ソーンなど直接的間接的に影響を受けた人は数知れない。ピラネージ作品の集大成ともいえる『古代ローマのカンプス・マルティウス』(1762)はイギリスの建築家ロバート・アダムに献呈されている。ピラネージは、建築、庭園、風景画、廃墟画、版画、装飾の分野で知られ、後にはフランスロマン主義文学作家たちにおいてもジョルジュ・プーレやリュツィウス・ケラーによってその影響が研究される。作家マルグリット・ユルスナールの『ピラネージの黒い脳髄』は20世紀においてもピラネージへの関心の高さを示す。ピラネージの作品のいったい何が時代を超え、分野を超えて共鳴を呼ぶのであろうか。ヴェネチア生まれのピラネージは故郷に戻らず、ローマで生涯を送ることになるが、彼を引きつけたものは、その作品からも明らかなように、古代ローマの廃墟である。この廃墟をモチーフにして、ピラネージがグロテスク模様をどのように捉えたのかを、まず彼の作品『グロッテスキ』に探り、彼が舞台芸術から学んだこと、彼が追求した美的効果について、そして暖炉のグロテスク装飾の4 つの視点から考察していきたい。
著者
武末 祐子 タケマツ ユウコ TAKEMATSU YUKO
出版者
西南学院大学学術研究所
雑誌
西南学院大学フランス語フランス文学論集 (ISSN:02862409)
巻号頁・発行日
vol.57, pp.47-77, 2014-02

ジョヴァンニ=バティスタ・ピラネージは、1752年(32歳)にアンジェラと結婚するまでに、『建築と透視図法、第一部』、『グロッテスキ』、『牢獄』など創作性が強いカプリッチョ作品を制作するが、同時に『古代現代のさまざまなローマの風景』(1745)、『共和政および帝政初期時代のローマの遺跡』(1748)、『ローマの景観』(1748年以降)などヴェドゥータといわれる写実的な風景版画を制作している。このヴェドゥータは、かなり正確に当時のローマの風景を描いており、幻想性、想像性が強い前者とは少し性質を異にする。1 グロテスクな美は、その幻想的性質の強さからヴェドゥータにおいては見出されないように思えるがはたしてそうであろうか。本稿では、古代ローマの廃墟が18世紀当時のローマの建築物とともに描かれているピラネージのヴェドゥータについて検証していく。実際の都市風景を描いたという『ローマの景観』において、「グロテスク風」の美がどのように描かれているのか、廃墟をモティーフにしてどのような「グロテスク風」の美的効果を生起させているのか論じてみたい。『ローマの景観』(全137作品)は、いわゆる18世紀、ピラネージの時代の絵葉書といってよく、実際ピラネージ作品のなかでも、観光客によく売れた版画である。このシリーズは、個別に販売されもしたが、ときどきアルバムにして売られ、たとえば1751年には34枚をブーシャール印刷所が発行している。当時、イタリアのヘルクラネウム(1738年発見)やポンペイ(1748年発見)、ローマなどで遺跡の発掘が進められ、古代ローマ史を学んだイギリス、フランス、ドイツなどの貴族の子息がグランドツアーでローマを訪れ、お土産に版画を買って帰ったのである。『ローマの景観』Vedute di Roma アルバムは、タイトルページに「ローマの景観、ヴェネチアの建築家、ジョヴァンニ=バティスタ・ピラネージによって描かれ彫られた」と刻まれた石板とそれを美しく飾るカルトゥーシュ、フロンティスピスには「ミネルヴァの彫刻がある廃墟のカプリッチョ」と題された『グロッテスキ』とほぼ同じ印象を喚起する作品があり、そのあとにローマ各所の風景が綴られている。まずピラネージの廃墟作品の植物的特徴、次にハイブリッド性、最後にその化石的特徴をみていきたい。
著者
武末 祐子 タケマツ ユウコ Yuko TAKEMATSU
出版者
西南学院大学学術研究所
雑誌
フランス文学論集 (ISSN:02862409)
巻号頁・発行日
vol.53, pp.27-36, 2010

La légende de saint Julien l'Hospitalier de Flaubert est une histoire de par-ricide écrite à base de la Vie des Saints diffusée couramment au XIXe siècle et à base aussi du vitrail de la Cathédrale de Rouen. Flaubert place la prédiction du parricide rendue à Julien par le grand cerf dans une scène presque onirique. Il insère une petite description du rêve du personnage tout au milieu du récit avant son meurtre. Il met le personnage dans un état de cauchemar après son meurtre. Les rêves de Julien, disposés ainsi autour du parricide, nous semblent importants tout au long de l'histoire. L'histoire racontant la vie du saint médiéval s'adresse au lecteur du XIXe siècle. Le texte s'étend donc sur plusieurs siècles dans l'espace occidental chrétien. La critique flaubertienne relève les sources du texte. Pour les sources hagiographiques Pierre-Marc de Biasi étudie dans son article toutes les versions antérieures de ce conte dont deux nous semblent particulière-ment importantes pour nos études : l'Essai sur les légendes pieuses du Moyen Age d'Alfred Maury, un des amis de Flaubert et la Bible. A propos du rêve, François Lyotard souligne son paradoxe : « l'expérience du rêve est universelle, mais c'est l'expérience d'une singularité incommuni-cable. Ces aspects à la fois personnel et universel du rêve sont déjà remar-qués au Moyen Age. Jacques le Goff étudiant la théorie du rêve du théolo-gien au haut Moyen Age constate : « Pris entre la croyance aux rêves et la méfiance à leur égard, Tertullien insiste cependant sur le rêve, phénomène humain universel. Il étend dans le dernier chapitre de son petit traité, (…) l'expérience du rêve à toute l'humanité. Le chrétien médiéval et l'homme des temps modernes partagent cette expérience du rêve à la fois singulier et universel. Les contes et légendes d'autre part, récits populaires fabuleux, comme l'indique le dictionnaire, sont à la fois création anonyme et création individuelle. D'après Raymonde Debray-Genette, critique flaubertienne « la légende est bien le lieu possible d'un universel singulier. La légende est donc une forme littéraire privilégiée du rêve comme l'expérience paradoxale humaine. Nous prenons cette piste pour voir comment Flaubert constitue les images oniriques du parricide qui est l'expérience singulière de saint Julien. Ciblés sur les rêves du saint nos études ne seront ni psychanalytiques ni psycholo-giques, mais se proposent essentiellement esthétiques et poétiques. Abor-dons maintenant les deux moments précis du rêve du personnage dans le chapitre II et le chapitre III. (voir le tableau qui montre la structure du conte)