- 著者
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モハーチ ゲルゲイ
- 出版者
- 日本文化人類学会
- 雑誌
- 文化人類学 (ISSN:13490648)
- 巻号頁・発行日
- vol.81, no.4, pp.614-631, 2017
臨床試験(治験)は、開発中の医薬品などを病人や健常者に投与し、新薬の安全性と効率性を評価する仕組みである。実薬と偽薬を比べる実験の場である一方で、病気を患っている人びとの苦痛を和らげるという臨床実践でもある。本稿では、ハンガリー西部にある小規模臨床試験センター(DRC)の事例を取り上げ、製薬をめぐる実験的状況に焦点を当てることで、もの・身体・世界を生成していく関係性の特徴を明らかにしていく。DRCは、1990年代前半に行われた市場開放以降、糖尿病と骨粗しょう症に関する研究と治療を中心に、外資系製薬企業と周辺の地方病院のネット ワークを徐々に拡大してきた研究病院である。そこで行われている臨床試験においては、新薬の効果によって実行(enact)される化学物質と身体と社会の間の三つのループが生成されている。まず、臨床試験の土台となる二重盲検法と無作為化法の実験的設定にしたがう実薬と偽薬のループが、新薬の効果を統計データとして生み出していくという過程がある(方法のループ)。次に、このデータがDRCと周辺の外来医院との連携を促す中で、薬を対象とする実験と、治療を受ける集団は組織化の中でループしていくことになる(組織化のループ)。さらに、多くの被験者の家族から血液サンプルを採集・保管するバイオバンク事業では、いわゆる「実験社会」における政治性を伴った治療と予防の相互構成が見えてくる(政治のループ)。本稿では、これらの三つのループを踏まえ、メイ・ツァンが人類学に導入した「世界化(worlding)」という概念を用いながら、医薬化に対する政治経済学的な批判を、薬物代謝の効果として捉え直すことを試みる。実験と治療の間の絶え間ないループを通じて新たな治療薬が誕生する過程に焦点を絞り、自然と文化の二項対立に対する批判的研究の視点から医療人類学への貢献を図る。