著者
ヴァラー モリー
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.46, pp.31-43, 2012-09-28

現在「苔寺」という愛称で広く知られている西芳寺は、一三三九年以降、臨済宗僧侶で造園を得意とした夢窓疎石(一二七五―一三五一)によって再興され、浄土宗寺院から禅寺へと改められた。従来の研究では、苔や滝石組が造園史家などに注目されてきたが、中世の文献を詳しく見れば、夢窓による修復と改宗以降の西芳寺庭園の特徴は別のところにあったようである。滝石組は江戸時代の資料で初めて確認できるものであり、高橋桃子が指摘したように、中世の西芳寺では、清冽な池での舟遊び、紅葉狩、花見などの行楽が、天皇家や公家、武家、僧侶の訪問によってなされていたのである。本稿では、「桜」を西芳寺の焦点として取り上げつつ、これまで見落とされてきた桜の意義、そしてその役割を仏教に関する文献をもとに明らかにする。主な資料として『西芳精舎縁起』(一四〇〇)、夢窓の歌集である『正覚国師和歌集』(一六九九)、および『天竜開山夢窓正覚心宗普済国師年譜』(一三五三)を用いて検討する。『縁起』に現れる当寺の伝説を概観した上で、西芳寺で何世紀にもわたって、桜が天皇家と武家、あるいは高僧と深い関わりをもち、現場での遊戯と儀礼に聖なる面を加えていたことを明らかにする。さらに、夢窓の和歌に現れる桜には、幕府を賛美し、天皇の長寿を祈ることで、夢窓入滅以降の未来の西芳寺への希望が込められていることに注目した。また『年譜』には、桜を媒介として、西芳寺が禅宗の所定の目的地として描かれていることを明らかにした。以上の過程で、夢窓の西芳寺においては、禅宗が当寺の寺院の伝説に移植されつつ、当寺が禅宗の歴史伝説において重要な位置を得たことを論じた。