著者
井口 淳子
出版者
日本音楽学会
雑誌
音楽学 (ISSN:00302597)
巻号頁・発行日
vol.62, no.2, pp.73-85, 2017

A. ストローク(Awsay Strok)とは、1910年代から日本敗戦後にいたるまで、およそ30年にわたり上海に居住し、ヨーロッパ、ロシア、米国から演奏家、歌手、オペラ団、バレエダンサーなどを招聘し、日本公演を含む「アジアツアー」をプロデュースしたユダヤ人興行主である(1876年2月27日、ラトヴィア、ドヴィンスク Dvinsk 生、1956年7月2日、東京没)。<br> 「A. ストローク」の名は、演奏家の評伝や東アジアの洋楽受容に関する文献のなかに「impresario、インプレサリオ、興行主、ディレクター、マネージャー」として数多く見出せるものの、彼自身の経歴や活動についての本格的な研究はいまだなされていない。<br> 日本国内では、彼が企画した興行があたかも「日本のみを目的地」としていたかのように記述されがちであった。つまり、日本においては、ストロークは「世界的に著名な演奏家を、日本にはじめて招来した興行主」、との認識がなされてきた。しかし、彼が手がけた興行は、日本を目的地とするものではなく、広くアジアの諸都市、日本、中国、東南アジアの植民地都市を巡業(ツアー)する興行であった。そして日本と上海は一組のセットになってツアーに組み込まれていた。<br> 筆者は、上海で発行された英字新聞や仏語新聞にストロークの名前が公演広告や記事に数多く掲載されていることに着眼し、英字新聞データベース及び、それを補完する仏語新聞 Le Journal de Shanghai により、彼がプロデュースした上海公演を抽出し、その全体像を明らかにすることを試みた。<br> その結果、ストロークは東京、大阪、上海で、ほぼ同時に同一のアーティストが公演を行う、国境をこえた演奏家、舞踊家のアジアツアーを1918年から1940年までの23年間にわたり、50回以上実施していたことが明らかになった。
著者
井口 淳子
出版者
日本音楽学会
雑誌
音楽学 (ISSN:00302597)
巻号頁・発行日
vol.62, no.2, pp.73-85, 2017 (Released:2018-03-15)

A. ストローク(Awsay Strok)とは、1910年代から日本敗戦後にいたるまで、およそ30年にわたり上海に居住し、ヨーロッパ、ロシア、米国から演奏家、歌手、オペラ団、バレエダンサーなどを招聘し、日本公演を含む「アジアツアー」をプロデュースしたユダヤ人興行主である(1876年2月27日、ラトヴィア、ドヴィンスク Dvinsk 生、1956年7月2日、東京没)。 「A. ストローク」の名は、演奏家の評伝や東アジアの洋楽受容に関する文献のなかに「impresario、インプレサリオ、興行主、ディレクター、マネージャー」として数多く見出せるものの、彼自身の経歴や活動についての本格的な研究はいまだなされていない。 日本国内では、彼が企画した興行があたかも「日本のみを目的地」としていたかのように記述されがちであった。つまり、日本においては、ストロークは「世界的に著名な演奏家を、日本にはじめて招来した興行主」、との認識がなされてきた。しかし、彼が手がけた興行は、日本を目的地とするものではなく、広くアジアの諸都市、日本、中国、東南アジアの植民地都市を巡業(ツアー)する興行であった。そして日本と上海は一組のセットになってツアーに組み込まれていた。 筆者は、上海で発行された英字新聞や仏語新聞にストロークの名前が公演広告や記事に数多く掲載されていることに着眼し、英字新聞データベース及び、それを補完する仏語新聞 Le Journal de Shanghai により、彼がプロデュースした上海公演を抽出し、その全体像を明らかにすることを試みた。 その結果、ストロークは東京、大阪、上海で、ほぼ同時に同一のアーティストが公演を行う、国境をこえた演奏家、舞踊家のアジアツアーを1918年から1940年までの23年間にわたり、50回以上実施していたことが明らかになった。
著者
井口 淳子
出版者
大阪音楽大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2010

戦間期、1920年代から40年代の大阪と上海における西洋音楽受容について、音楽専門教育と、ロシア人、ユダヤ人亡命者による演奏会や教育活動を対象に、文字資料とインタビューにもとづく調査をおこなった。とくに上海については、当時発行されていた「外国語新聞」、とくに、フランス語LeJournaldeShanghai、ロシア語新聞Slovo、Zariaなどを収集、解読することによって「同時代音楽」(バレエを含む)の活発な上演実態を明らかにすることができた。