著者
井川 重乃
出版者
北海道大学大学院文学研究科
雑誌
北海道大学大学院文学研究科研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
no.12, pp.17-33, 2012

本稿では「フラクタル」三部作と称される北野武監督作品『TAKESHIS'』(二〇〇五年)、『監督・ばんざい!』(二〇〇七年)、『アキレスと亀』(二〇〇八年)を取り上げる。本三部作は映画制作、映画監督とは何かという北野武の自己言及的な側面が強く出た映画だろう。三作に共通したこれらの問題を確認し、北野武映画の系譜にどのような意味を持つのかを考察していく。その手段として監督と主演を兼任するビートたけし/北野武の身体に着目する。『TAKESHIS'』『監督・ばんざい!』で「自写」が映し出されるとき、それらは自傷的かつ「死」のイメージを持つ。それを「自写のマゾヒズム」と定義する。また『アキレスと亀』では、「自写」とともに映画内で使用される絵画、主に自画像が同じく「自写」として同様のイメージと、さらに狂気を展開するものとして検討したい。映画ではビートたけし/北野武を<合わせ鏡>で映し出し、あるいは人形化することで、身体を<像>として増殖させていく。「フラクタル」構造のように、あるいは循環小数にあらわれる循環節のように無限可能性を前提として<像> は無限に増殖している。このような<像>の一部分が、映画全体を示している構造を<換喩的>なイメージの羅列と言い換えることができるだろう。例えるなら『TAKESHIS'』の宣伝ポスターのような、一つ一つの顔が集まってビートたけしの顔を作るコラージュのようでもある。この<換喩的>なイメージは「フラクタル」=無限に繰返されていたが、三作目『アキレスと亀』において、その無限可能性の否定が描かれている。『アキレスと亀』のラストシーンで「アキレスは亀に追いついた」とテロップが表示されるとき、ゼノンのパラドクスの解消と共に、その理論の根底でもある無限可能性も否定されているのではないか。ビートたけし/北野武の身体を用いた<像>の<換喩的>なイメージは、無限増殖を止める。「自写のマゾヒズム」とその狂気の終焉を、北野武映画の転換点として評価したい。