著者
村松 哲夫
出版者
北海道大学大学院文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.25-42, 2013-12-20

インフォームド・コンセントが法的にも倫理的にも有効な手続きとして機 能するためには,インフォームド・コンセントが成立するための諸過程が適 切な順番で移行しなければならない。その順番とは,以下の通りである。す なわち,患者は,医療者に対して,自分の既往症や状態について説明する。 その上で,医療者は,患者から提供されたこの情報を元に医学的に妥当であ り,かつ,必要な治療・検査の性質やリスクについて十分に説明する。患者 は,医療者から提供されたこの情報を元に,自分の計画や嗜好,思想信条的 な制約を考慮しながら,当該治療・検査について承諾するかしないかを決め る。承諾する場合,その旨を書面で交換する。 このような過程を順番に移行することによって,有効な手続きとしてのイ ンフォームド・コンセントが成立する。 サルゴ判決(1957)で確認したように,医療における意思決定において, 説明は治療・検査に先立つ。この順番が入れ変われば,当該治療・検査が実 施された後に,患者に対する説明が行われることになる。これでは,患者が 当該治療・検査の実施について検討し,その諾否を決定する機会が奪われて しまう。また,当該治療・検査の承諾に関する手続きは有効ではなくなる。 有効ではない手続きによって行われた治療・検査は,合法化も正当化もでき ない。 説明に着目すると,患者側から見れば,自分の症状や既往歴などを正確に 記述しているという意味において,医療者側から見れば,当該治療・検査の 性質やリスクを正確に記述しているという意味において,正しい情報を相手 に提供する必要がある。正しくない情報を元になされた判断には,それを正 当化する根拠が乏しいからである。 その上で,副作用や重大な後遺症などといった有害事象が発生した場合, 当該治療・検査に医療過誤がなければ,その原因として考え得るのは,イン フォームド・コンセントの手続きが成立する過程に瑕疵があったということ である。すなわち,患者,もしくは,医療者がその相手に正しい情報を提供 していなかった,ということにある。 患者と医療者とのやりとりの過程が適切に移行すると,手続きとしてのイ ンフォームド・コンセントが成立する。この過程に瑕疵があれば,有効な手 続きではなく,これに基づく医療行為は合法化・正当化されない。医療過誤 がなかったのにもかかわらず,副作用や後遺症といった有害事象が発生した 場合,インフォームド・コンセントの手続きが成立した過程のどこかに瑕疵 がある。
著者
猪野 毅
出版者
北海道大学大学院文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.10, pp.161-185, 2010-12-24

小論は、山川九一郎著の『奇門遁甲千金書』という書を解読するために、まずその前提として「奇門遁甲」の基本的な概念や考え方について、まとめようと試みるものである。 『四庫全書総目』子部・術数類の中に収められている奇門遁甲に関係する文献には、『遁甲演義』二巻、『奇門遁甲賦』一巻、『黄帝奇門遁甲図』一巻、『奇門要略』一巻、『太乙遁甲専征賦』一巻、『遁甲吉方直指』一巻、『奇門説要』一巻、『太乙金鏡式経』十巻、『六壬大全』十二巻。また、『古今図書集成』や『隋書』経籍志にも遁甲の書が見える。 「遁甲」なる言葉は、史書においては『後漢書』方術伝・高獲伝・趙彦伝に初めて見え、また『陳書』『魏書』『北斉書』『南史』などにも「遁甲」の名称が見える。日本でも『日本書紀』推古天皇十年(602)条に「遁甲」が伝来したことが見える。『遁甲演義』・『奇門遁甲秘笈大全』などにより奇門遁甲の基本概念を考えると、甲を除いた乙・丙・丁を「三奇」とし、戊・己・庚・辰・壬・癸を「六儀」として、八卦の入った洛書九宮の枠に組み合わせ、その他、休、生、傷、杜、景、死、驚、開の「八門」、直符、螣蛇、太陰、六合、勾陳、朱雀、九地、九天の「八神」(あるいは太常を入れて「九神」)、また天蓬星・天任星・天冲星・天輔星・天英星・天芮星・天柱星・天心星・天禽星の「九星」を並べて「遁甲盤」を作り上げ、占う年月日時を六十干支で表し、「天の時」「地の利」「人の和」に基づいて占いを行う。その占い方には、洛書九宮の八枠を円盤に見立てて回転移動させる排宮法と、洛書九宮の数の順序通りに移動させる飛宮法があり、山川九一郎『奇門遁甲千金書』の占い方は排宮法を用いている。 遁甲盤を並べ終えたら、それぞれ九星・八門・八神(または九神)などの表す意味や、相互の影響を考えて、吉凶を判断する。 奇門遁甲は方位学(空間の学、洛書学)であり、干支学(時間の学、暦学)でもあるあるので、奇門遁甲は時間と空間を統合した学問と言える。さらに、空間を洛書に従って九つに分け、時間を六十干支に従って六十に分割し、独自の世界観を構築している。また、九神・九星が天、九宮が地、八門が人という、「天・地・人」をイメージした世界を構成している占術なのである。
著者
猪野 毅
出版者
北海道大学大学院文学研究科
雑誌
北海道大学大学院文学研究科研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
no.10, pp.161-185, 2010

小論は、山川九一郎著の『奇門遁甲千金書』という書を解読するために、まずその前提として「奇門遁甲」の基本的な概念や考え方について、まとめようと試みるものである。 『四庫全書総目』子部・術数類の中に収められている奇門遁甲に関係する文献には、『遁甲演義』二巻、『奇門遁甲賦』一巻、『黄帝奇門遁甲図』一巻、『奇門要略』一巻、『太乙遁甲専征賦』一巻、『遁甲吉方直指』一巻、『奇門説要』一巻、『太乙金鏡式経』十巻、『六壬大全』十二巻 。また、『古今図書集成』や『隋書』経籍志にも遁甲の書が見える。 「遁甲」なる言葉は、史書においては『後漢書』方術伝・高獲伝・趙彦伝に初めて見え、また『陳書』『魏書』『北斉書』『南史』などにも「遁甲」の名称が見える。日本でも『日本書紀』推古天皇十年(602)条に「遁甲」が伝来したことが見える。 『遁甲演義』・『奇門遁甲秘笈大全』などにより奇門遁甲の基本概念を考えると、甲を除いた乙・丙・丁を「三奇」とし、戊・己・庚・辰・壬・癸を「六儀」として、八卦の入った洛書九宮の枠に組み合わせ、その他、休、生、傷、杜、景、死、驚、開の「八門」、直符、螣蛇、太陰、六合、勾陳、朱雀、九地、九天の「八神」(あるいは太常を入れて「九神」)、また天蓬星・天任星・天冲星・天輔星・天英星・天芮星・天柱星・天心星・天禽星の「九星」を並べて「遁甲盤」を作り上げ、占う年月日時を六十干支で表し、「天の時」「地の利」「人の和」に基づいて占いを行う。その占い方には、洛書九宮の八枠を円盤に見立てて回転移動させる排宮法と、洛書九宮の数の順序通りに移動させる飛宮法があり、山川九一郎『奇門遁甲千金書』の占い方は排宮法を用いている。 遁甲盤を並べ終えたら、それぞれ九星・八門・八神(または九神)などの表す意味や、相互の影響を考えて、吉凶を判断する。 奇門遁甲は方位学(空間の学、洛書学)であり、干支学(時間の学、暦学)でもあるあるので、奇門遁甲は時間と空間を統合した学問と言える。さらに、空間を洛書に従って九つに分け、時間を六十干支に従って六十に分割し、独自の世界観を構築している。また、九神・九星が天、九宮が地、八門が人という、「天・地・人」をイメージした世界を構成している占術なのである。
著者
本間 愛理
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.14, pp.37-54, 2014-12-20

本稿では,宗教人類学の立場に立ち,スピリチュアリティ論やアニミズム論の流れの中にエストニアのMaauskを位置づけ,特にそこで見られる自然と人間の関係性に注目して考察を進めている。また,かつては文化進化論の文脈で用いられたアニミズムという古典的な概念を,Maauskを通して再考することの意義と,そこでMaauskがどのような貢献をなし得るのかを検討している。まず,かつては国教の地位にあったルター派キリスト教が,ソビエトによる支配の時代を経て,著しく衰退した現代エストニアで,Maauskという「エストニア人固有の土地」との結びつきを強調する動きが,人々に親しみを湧かせていることを契機として,それまでのエストニアやMaauskの歴史を振り返っている。そして,人間だけではなく,人間を取り巻くあらゆる非人間も「スピリット」を持っており,それらとの調和的な関係を保ち,うまく生きていくことを目指すMaauskの特徴は,自然と文化を決して切り離さない点にあることを論じている。Maauskは,エストニアの自然の中で人々がつないできた自然との関係性だけではなく,その関係性の中で生まれた「伝統文化」を重視する。そこでは,文化を持ち環境に適応する人間とその周囲に外在する自然という,自然と人間を対峙させた世界の捉え方ではなく,自然と文化をひとつながりの連続体とする世界の捉え方がなされていることが明らかになった。Maauskを通して結ばれる,人間と非人間,人間と人間の関係性は,矛盾や葛藤がありながらも,よりうまく生きていくためのポジティヴなつながりとして探求されている。ナショナリズムに陥る危険性や,Maauskに関わることによる人間関係の不具合などの課題は残しつつも,自然と文化の融合の中,すべてのものがひとつの関係性に生きていることを意識し,人間の目には見えない世界,すなわち,スピリットの世界に目を開かせるMaauskは,アニミズム概念や人間中心主義を考え直す大きな手がかりとなるだろう。
著者
高雄 芙美
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.14, pp.125-141, 2014-12-20

西日本各地で標準語化とともに関西方言化が進んでいるが広島では他地域ほど関西方言化が見られないことが指摘されている。この他地域とは異なる広島方言の特性を捉えるためには広島方言の実態を明らかにする必要がある。本稿では広島方言の「のだ」形式について,標準語,関西方言と比較し記述することで,広島方言の文法的特徴の一面を明らかにする。加藤2003,2006によると「のだ」は,命題内容について判断済みの情報である,ということを表す。また終助詞「よ」は命題内容について,発話者が排他的な知識管理をおこなう準備あること示す。どちらも話者の知識管理に関わる談話マーカーである。広島方言,関西方言では名詞化辞「の」は「ん」となり,「のだ」は広島方言では「んじゃ」,関西方言では「んや」となる。「んじゃ」「んや」の前が否定辞「ん」「へん」など撥音のときは「のじゃ」「のや」のようになる。「んじゃ」「んや」は言い切りの場合,気づき・発見の用法で使われることが多い。自分の情報を披瀝する場合は広島方言では「んよ」,関西方言では「ねん」が使われることが多い。広島方言では「*んじゃよ」とはならず「んよ」と,名詞化辞「ん」に直接「よ」がつく。伝聞の形式「んと〔んだって〕」も名詞化辞「ん」のあとにコピュラ辞が現れない。推量形や従属節などは広島方言では「んじゃろう」「んじゃけど」のように「んじゃ」が現れるが,関西方言では「んやけど」「ねんけど」のように「んや」「ねん」の両方が現れる。また「のなら」「のだったら」のような仮定形は広島方言では「んなら」が一般的で,関西方言では「なら」は使われず「んやったら」が一般的である。広島方言では従属節の「んじゃけー〔んだから〕」,「んと〔んだって〕」で在来の方言形が保たれているが,関西方言では「んやから」「んやって」のように標準語と同じ形式が使用されている。関西方言は「ねん」のような独自の方言形式を持つ一方使用頻度の高い文法形式に標準語化が見られる。広島方言は「ねん」のような独自の形式はないが,「のだ」形に用いられるような使用頻度の高い文法形式で在来の方言形を保持している。
著者
シリヌット クーチャルーンパイブーン
出版者
北海道大学大学院文学研究科
雑誌
研究論集 = Research Journal of Graduate Students of Letters (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.475-493, 2013-12-20

タイにおける学生運動は,言論の自由を含む1968年の憲法公布をきっかけ に,様々な動きが見られるようになった。本稿では,新聞記事の分析を通じ て,事例として取り上げた「反野口運動」と「日本製品不買運動」の背景や 関連を考察した上で,タイにおける学生運動の展開かつ運動の成否に関わっ た資源や運動に貢献した政治的機会の観点から考察を進める。 「野口キック・ボクシング・ジム事件」による「反野口運動」及び「日本製 品不買運動」は,いずれもタイにおける日本の経済侵略に対する不満や不安 感が高揚していた状況の中で起きたものである。「反野口運動」において,新 聞記事を分析した結果,「ムアイ・タイ」を「キック・ボクシング」と呼んで いることや野口のムアイ・タイに対する捉え方が,タイ人の怒りを招いた一 つの原因であると論じられる。また,「反野口運動」は,学生運動としての位 置付けはこれまでされていないが,学生が大きな役割を果たしていたとは言 える。 一方「日本製品不買運動」は,タイにおける初めての本格的な学生運動で あったと評価されている。運動を呼び起こした要因としては,日本のタイに 対する経済侵略への不安及び不満が挙げられるが,他にも当時の独裁政権に 対する不満が日本に転移して表現され,日本がスケープゴートにされたとい うことも考えられる。 両運動の関連については,「野口キック・ボクシング・ジム事件」は「日本 製品不買運動」を導く口火であったと言える。「野口キック・ボクシング・ジ ム事件」によって,運動のモジュールを獲得した新聞と学生は,同様のパター ンを用いて一個の国を攻撃対象とした大規模な「日本製品不買運動」を展開 することができたと考えることもできる。 運動の成否を決定する資源について,本稿では①良心的支持者による物資 的援助,②社会問題改善に対する意識を強く持つ大量の学生,③小規模の運 動によるにノウハウ,④タイ全国学生センターと学内における少数のセミ ナーグループといった学生ネットワーク,そして,⑤政治的機会の増加,と いった五つの資源が運動の成否に貢献したと論じる。
著者
武藤 三代平
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.16, pp.15-32, 2016-12-15

これまで明治政治史を論及する際,榎本武揚は黒田清隆を領袖と仰ぐこと で,その権力基盤を維持しているものとされてきた。箱館戦争を降伏して獄 中にあった榎本を,黒田が助命運動を展開して赦免に至った一事は美談とし ても完成され,人口に膾炙している。そのためもあり,黒田が明治政界に進 出した榎本の後ろ盾となり,終始一貫して,両者が「盟友」関係にあったこ とは疑いを挟む余地がないと考えられてきた。はたしてこの「榎本=黒田」 という権力構図を鵜呑みにしてよいのだろうか。 榎本に関する個人研究では,明治政府内で栄達する榎本を,黒田の政治権 力が背景にあるとし,盲目的に有能視する論理で説明をしてきた。榎本を政 府内でのピンチヒッターとする一事も,その有能論から派生した評価である。 しかし,榎本もまた浮沈を伴いながら政界を歩んだ,藩閥政府内での一人の 政治的アクターである。ひたすら有能論を唱える定説が,かえって榎本の政 府内での立ち位置を曇らせる要因となっている。 本稿では榎本が本格的に中央政界に進出した明治十年代を中心とし,井上 馨との関係を基軸に榎本の事績を再検討することで,太政官制度から内閣制 度発足に至るまでの榎本の政治的な位置づけを定義するものである。この明 治十年代,榎本と黒田の関係は最も疎遠になる。1879年,井上馨が外務卿に なると,榎本は外務大輔に就任し,その信頼関係を構築する。これ以降,榎 本の海軍卿,宮内省出仕,駐清特命全権公使,そして内閣制度発足とともに 逓信大臣に就任するまでの過程において,随所に井上馨による後援が確認さ れる。この事実は,従来の政治史において定説とされてきた,「榎本=黒田」 という藩閥的な権力構図を根本から見直さなければならない可能性をはらん でいる。
著者
増山 浩人
出版者
北海道大学大学院文学研究科
雑誌
研究論集 = Research Journal of Graduate Students of Letters (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.43-61, 2013-12-20

本稿では,18世紀ドイツにおけるライプニッツ受容とヒューム受容に関す る近年の研究動向を紹介する。その上で,いくつかの具体例を交えながら, これらの研究がカント批判哲学の哲学史的源泉を解明するために寄与しうる ことを示したい。そのために,1.では,いわゆるヴォルフ学派に関する近 年の研究動向を紹介する。1960年以降,ヴォルフ学派に関する研究が急速に 進められてきた。その原動力となったのが,Georg Olms社によるヴォルフ全 集の刊行である。この全集は,ヴォルフの著作の原典が収録された第一部, 第二部と,ヴォルフ哲学の関連資料が収録された第三部からなる。第三部に は,ヴォルフ以外の18世紀ドイツの哲学者の原典だけでなく,ヴォルフ哲学 の研究書や論文集,国際ヴォルフ協会の機関誌『ヴォルフィアーナ』なども 含まれている。このように,ヴォルフ全集の刊行は,ヴォルフの著作の原典 をはじめとする当時の一次文献のみならず,この分野に関する研究書や論文 集などの二次文献も提供することで,1960年以降の18世紀ドイツ哲学史研 究を牽引し続けてきたのである。2.では,1768年にデュタン版ライプニッ ツ全集が出版されたことが,当時のドイツにおけるライプニッツ哲学の普及 に大きく寄与したことを示す。その上で,ライプニッツとヴォルフ学派の哲 学を比較検討した近年の研究を紹介する。これらの研究の中でも,M.Casula の「予定調和説とライプニッツからA.G.バウムガルテンまでの予定調和説 の発展」は,ライプニッツ・ヴォルフ・バウムガルテンの三者の哲学の相違 点を明らかにした重要な論文である。そこで,2.の後半部では,Casulaの 論文の概説を行う。最後に,3.では,18世紀ドイツにおけるヒュームの著 作の独訳の出版状況を概観する。
著者
宮澤 優樹
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
北海道大学大学院文学研究科研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
no.15, pp.25-38, 2015

世界的な人気を博したシリーズの第一作である『ハリー・ポッターと賢者の石』は、一見して夢に満ちたファンタジー小説だ。だがその表面的な覆いを取り払ってみたとき、一般的に思われている明るい側面とは別の、「怖い」側面を読み取ることもできる。事実『賢者の石』では、「表面的な見かけの下にあるものを推理せよ」と言うかのように、隠蔽とその内実という組み合わせが多用されている。主人公のハリーが迎えられる世界は、普通の人間の目からは隠された世界だし、対峙することになる宿敵は、おどおどとした無難な人物の皮をかぶり、つねに近くにいる。これらはいずれも、なんの変哲もない見た目を隠れ蓑とし、ほんとうの姿を隠している。このようなプロット上の仕掛けが、物語全体についても当てはまっているのではないだろうか。作品の隠された姿へと、登場人物や情景が漏らす細部を順に追うことでたどり着くことができる。その先にあるのは、生死が軸となったハリーと宿敵との関係である。ハリーは、「例のあの人」と呼ばれ、すでに死んだはずの宿敵と共通する性質を持つ。ハリー自身もまた、生死の境におり、直接には名指しえない性質を抱えている。そのことは、ハリーを「生き残った男の子」と呼ぶことが欺瞞であり、同時に、宿敵をはっきりと名指すことが、不誠実な態度であることを示唆する。したがって、『賢者の石』が迎えた結話、「名指しにくい相手を名指す」、「前を向いて生きる」という決意は、表面的な見せかけなのだとも読める。前向きなメッセージが発せられる一方で、それとはちょうど逆の筋書きが描かれている。この物語は、児童文学という「隠蔽」と、それに並行する名状しがたい状態を描く、二重の小説なのである。
著者
髙橋 小百合
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
北海道大学大学院文学研究科研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
no.16, pp.85-100, 2016

本論文は、明治期における木戸孝允と幾松に関する言説を、二人の関係性の描写から分析し、同時代の男女交際論等、男女関係についての思潮をふまえながら、文化史中に占める二人の描写の位置および意義について考察したものである。論者には『日本近代文学会北海道支部会報』一九号掲載予定の別稿「<木戸孝允>像の生成」があり、そこでは木戸孝允が死去から明治末年までのあいだ、どのように語られていったのか、その変容と文脈パターンについて論じた。本論文では、そこで見出した六つの文脈パターンのうち、以後、大正、昭和期とより重要性を濃くするであろう<木戸と幾松> <幾松あっての木戸>について一歩踏み込んだ論を展開したつもりである。本論文の第一章「木戸表象の傾向と類別」は、木戸を語る文脈パターンについてまとめ、右の別稿の内容を引き継いだかたちである。よって、本論文の核は第二章以降にあるといえる。幾松はなぜ、木戸を語る言説のなかで存在感を増し、大衆的歓迎をうけたのか。第二章では、木戸と幾松の関係が、近代的恋愛の文脈に読み替え可能であることを論じ、同時に、幾松の芸妓という出自に着目して、近代と前近代の微妙なあわいに、ふたりの「恋愛」があることを明らかにした。第三章は、一方で二人の関係表象がもつ「復古」性について論じている。「王政復古」「一君万民」のイデオロギーとからめながら、<尊いから尊い>カミの論理で語られる木戸と、太古、国運を占う巫でありえた(元)芸妓幾松との関係が、国生み神話に準ずる「復古」の国づくりを表徴しうると指摘した。幾松あることによって、木戸のイメージは①愛妓とついには恋愛結婚を遂げた②<勤王の志士・桂小五郎>として定型化していく。それは同時に<近代>化と<復古>の二律背反、あるいは混淆を示す営為でもある。これこそ、日本の<近代化>の姿そのままであり、本論文のもっとも強調しておきたいところである。

11 0 0 0 OA 圏論と構造主義

著者
深山 洋平
出版者
北海道大学大学院文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.12, pp.31-46, 2012-12-26

ヘルマン(Geoffrey Hellman)は2003年の著作〝Does category theory provide a framework for mathematical structuralism?"(Hellman,2003)にお いて,マックレーン(Saunders Mac Lane)による数学の圏論的基礎付け(Mac Lane&amp; Moerdijk,1992)とアウディ(Steve Awodey)の圏論を用いる構造 主義(Awodey,1996)を誤って結びつけた。彼がどのように誤ったかは,ア ウディの圏論を用いる構造主義の実際を見ることで理解できる。さらにアウ ディの構造主義に特徴的な「図式」の概念(Awodey,2004)に対してヘルマ ンは数学的真理の所在と射のみの立場の一貫性の観点から疑問を呈している (Hellman,2009)。前者の問いは図式の指示の観点から実際に問題であり,後 者の疑問は不適切な問題設定であると思われる。
著者
鈴木 仁
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.16, pp.1-21, 2016-12-15

本論は、樺太における地名選定と、その後の地名研究の活動から、日本領に再構築される樺太での日本人の領土意識を考 察したものである。 第一節では、幕府や開拓使における樺太の地名の取り扱いをまとめた。アイヌ語地名を漢字表記した行政地名化は北海道 で実施され、開拓使・北海道庁や各支庁による選定がなされており、樺太では明治六年(一八七三)に「樺太州各所地名」 が定められる。だが、各地の表記が整理される前に、明治八年のサンクトペテルブルク条約(樺太千島交換条約)により島 の全域はロシア帝国領となった。 第二節では、日露戦争中に樺太を占領した現地の部隊による地名改称と、これに対する地理・歴史学者たちの反応をまと めた。明治三十八年(一九〇五)七月に占領が進められたロシア領サハリン(樺太)には、勝利を記念して地名が付けられ たが、北海道にもあるアイヌ語地名が樺太で消されていることに反対する意見が出されている。 第三節では、明治四十年(一九〇七)四月に開設された樺太庁による地名選定事業についてまとめた。一部に意訳や日本 語地名の新たな設置もあるが、選定の基本方針はロシア語地名を排除し、原名となるアイヌ語地名を調べ、その語音の漢字 表記としている。大正四年(一九一五)八月に、樺太で郡町村が編制されると、広域地名にも採用されている。 第四節は地名研究史とした。樺太の地名には多様な民族と歴史変遷により、アイヌ語以外の言語も影響しているため、島 内では歴史研究の資料として調査されている。本論では、その調査活動のなかから、昭和期には広まった郷土研究により、 異文化であったアイヌ語が郷土の文化として研究される過程をまとめ、昭和五年(一九三〇)に樺太郷土会から発行された 『樺太の地名』を日本人住民による一つの成果として取り上げた。加えて戦後の出身者によるアイヌ語地名研究の見直しや、 郷土の記憶として資料化されたことも補足した。
著者
佐々木 香織
出版者
北海道大学大学院文学研究科
雑誌
研究論集 = Research Journal of Graduate Students of Letters (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.251-270, 2013-12-20

一般的に,言語変化は「誤用」「ことばの乱れ」として問題視され,正すべ きものであるとみなされることが多い。本研究は,規範から逸脱した語形を 単なる「乱れ」ではなく,日本語において現在進行中の言語変化の一端であ ると位置づけ,その現状や出現の理由を考察することで現代日本語の姿を明 らかにしようとするものである。 本稿ではそのような現在進行中の言語変化として,後部要素として動詞連 用形を持つ転成名詞が,再び動詞化する例を取り上げて論じる。名詞をその ままの形式で動詞化することを許さない日本語では,従来,名詞に軽動詞「す る」を付けるか,「-r」語幹を付けることで動詞化していた。しかし,「ひた走 り(に走る)」という名詞から形成された「ひた走る」という動詞が現在定着 していることを代表に,様々な名詞転成動詞が存在することを本稿では主張 する。ここでは,そのような名詞転成動詞の実例を国会会議録や新聞記事, ウェブサイトから収集し,前部要素と後部要素の関係性に基づいて分類した。 その上で,名詞転成動詞は前部要素が様態を表す語であり,後部要素に対し て修飾的にはたらくことを強く求めるということを示す。 名詞転成動詞が作りだされる話者の心的要因について本稿は,より負担の 少ない簡素な語形を好むという「経済性の原理」と,よりインパクトがあり 新規性のある面白い語形にしたいという「創造性の原理」の二つを紹介する。 どちらも話者の,日本語に対する内的規則が存在しなければ成立しないもの であり,単なる学習不足による間違いではなく,一種の言語変化であると主 張する。
著者
伊藤 佐紀
出版者
北海道大学大学院文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.10, pp.35-48, 2010-12-24

20世紀半ばから英米圏で興隆した分析美学は、「芸術とは何か」という問いを「芸術」概念の分析に主眼をおいた「あるものが芸術概念に適応されるための必要十分条件とは何か」という問いへと再定式化した。このような「芸術定義論」は現在も分析美学の中心的テーマの一つとされている。近年、スコットランドの美学者ベリス・ゴート(Berys Gaut)は、反本質主義を擁護する「芸術クラスター理論」を提唱した。ゴートは、「芸術は束概念であり、それゆえ定義することができない」と主張し、あるものが芸術概念に適応されるための条件として、複数の改訂可能な基準を選択的に結合させることによって芸術概念を特徴化する、選言的結合形式を持つ記述の束(the Cluster Account of Art : 以下CAAと略記)を提示する。こうした議論に対し、芸術概念の定義不可能性を主張する反本質主義擁護の立場に立ちながら、芸術であることの条件を挙示するゴートの主張は矛盾を包含しているという批判が集中した。本稿はこうした批判に対するゴートの応答を検討することによって、一見矛盾を包含するように思われるゴートの主張の目的を整合的にとらえるよう試み、理論の位置づけを明確化する。そのうえで、ゴートが提示したCAAの妥当性を検討する。まず芸術クラスター理論の前提と背景を確認し(第一節)、次いで基本的な概要(第二節)を確認する。さらに、ステッカーとデイヴィスによる「CAAは定義である」という批判を取り上げ、この批判にゴートがどのように応答しているか検討する(第三節)。ここでゴートがCAAは「高度に選言的で多様性に富む」定義であると譲歩しながらも、反本質主義者の立場に固執したゴートの意図を明確にするよう試みる。最後に、反本質主義を擁護しようとするゴートの主張は維持できず、CAAの妥当性は選言的定義として認められうることを示唆する(第四節)。
著者
周 菲菲
出版者
北海道大学大学院文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.111-135, 2013-12-20

この論文は,観光研究におけるアクター・ネットワーク論的なアプローチ の必然性と可能性を探求する。まず,従来の観光研究における全体論的な視 点の欠如とモノについての考察の不足といった問題点を指摘する。観光地対 観光者という二分法や,イメージ論のような表象分析の枠では,観光実践の 複雑性を十分に研究することができない。ここで,関係の生成変化に注目し, 人やモノ等の断片的な諸要素を,諸関係を構成する対称的なアクターと見て, それらのアクターが織り成すネットワークの動態の過程を把握するアク ター・ネットワーク論に注目する。そして,観光におけるモノの物質性と場 所の多元性の存在を論証し,観光者のような特定のアクターが観光ネット ワークの中で他のアクター(地域イメージ,モノ等)を翻訳し,自らの実践 に導く様相を,先行研究に基づいてまとめる。さらに,中国人の北海道観光 を例として,アクター・ネットワーク論に基づき,個的実践の共有化の過程 と,地域イメージのブラックボックス化の過程をまとめた。最後に,観光研 究へのアクター・ネットワーク論的アプローチを,地域の複数性を提示する 研究として提示してみた。
著者
山本 晶絵
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.17, pp.31-53, 2017-11-29

アイヌの古老らに対する聴き取り調査資料を主な対象とし,資料中に記述されるフクロウ類の呼称について整理・検討を行った。これは,アイヌのシマフクロウ送りに関する調査・研究の基礎として位置づけられる。本稿では,シマフクロウ Ketupa blakistoni blakistoni およびエゾフクロウ Strix uralensis japonica に関する呼称を10に大別して地方ごとに整理し,資料中に見られる“フクロウ”に関する呼称が示す種について,考察を行った。シマフクロウを指す呼称としては,“コタンコロカムイ”が北海道の最も広い範囲で見られたほか,“カムイチカプ”および“フムフムカムイ”は石狩,胆振,日高地方を 中心に,“ニヤシコロカムイ”や“アノノカカムイ”は主に十勝,釧路地方においてのみ確認することができた。雅語であったと考えられる“カムイエカシ”および“モシリコロカムイ”は,前者は日高地方,後者は釧路(根釧)地方に偏って確認されたが,今後新たな事例が追加されることで,地域差が緩やかになる可能性が高いと考えている。エゾフクロウを指す呼称としては,“クンネレクカムイ”が最頻出であった。しかし,シマフクロウと比べると全体的に事例数そのものが少なく,さらに,“クンネレクカムイ”が重点的に見られたのは釧路地方のみで,石狩,日高地方では“イソサンケカムイ”および“ユクチカプカムイ”が比較的多く見られたことから,“クンネレクカムイ”が一般的な呼称であったとは,現段階では判断できかねるとした。フクロウに関する呼称については,シマフクロウとエゾフクロウ,および他のフクロウ類を指すものが混在している可能性が高い。記述の内容からシマフクロウを指すものと推測できる事例はあったが,エゾフクロウおよび他のフクロウ類を指すと考えられる呼称に関しては,判断材料となる情報が断片的であることから検討が困難であった。対象とする資料の範囲を広げ,新たな情報を追加することで,より詳細な検討が可能になるものと考えている。
著者
久井 貴世
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
研究論集 = Research Journal of Graduate Students of Letters (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.14, pp.55-80, 2014-12-20

江戸時代の文献史料をもとに,史料中に記載されるツル類の名称を整理し,現在の種との関係について検討を行った。これは,文献史料を用いた研究を進めるにあたっての基礎作業として位置付けられる。本稿では,マナヅルGrus vipioとナベヅルG.monachaに関係する四つの名称を対象とした。“真鶴”・“”と記載される名称はマナヅルを指し,方言や別名もみられた。“黒鶴”・“陽烏”は,およそナベヅルを表わす名称として用いられ,一部でクロヅルG.grusを示唆する記述もみられた。“薄墨”は淡色化個体やクロヅル,“霜降鶴”は交雑種やカナダヅルG.canadensisを示す可能性を提示したが,あくまでも推測の域を出ない範囲のものであった。江戸時代には,現代よりも多種多様な名称が存在し,一部では史料によって想定される種が異なるなどの齟齬もみられた。マナヅルとナベヅルを示す名称に関しては大きな混乱は確認されなかったが,“薄墨”や“霜降鶴”については情報が断片的あるいは曖昧であるため,種を定めることが困難であった。今後新たな情報が追加されることで,より詳細な検討を行うことが可能である。
著者
ウグル アルトゥン
出版者
北海道大学大学院文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.12, pp.67-84, 2012-12-26

日本は19世紀後半の開国以後,資本主義社会の一部となっていく過程にお いて,活発な情報収集活動が行われた。その一つとして当時のオスマン帝国 を訪れた記録も残されている。彼らが当時書いた自身の日記や紀行,新聞記 事,そして手紙でのやり取り等は今も数多く現存しており,これらが日本に おけるトルコに関する知識の基盤となったと推測される。よって,これらの 資料は日本とトルコの関係を検討する上で重要になると考えられる。 1911年にイスタンブールに留学に来た小林哲之助はトルコの政治的,軍事 的,外交上の事情を新聞や外務省にレポートを送るなどの形で伝え,日本に 於いてトルコに関する情報を創造する先行者の一人であった。小林が集めた 情報は当時のトルコの事情をあらゆる場面で取り上げる上でかなり重要だと 思われる。 外務省職員であった小林哲之助は,本国より奨学金を得てトルコに留学し た。彼は留学生という身分ながら,トルコ国内でその周辺諸国である東ヨー ロッパやバルカン半島の事情をレポートし,これらの情報は大阪朝日新聞の 鳥居素川と連絡を密にとりあった。鳥居素川の協力の下それらの情報を「ガ ラタ塔より」という書籍にてまとめている。その中には,小林哲之助がトル コに留学している間に勃発した伊土戦争,バルカン戦争や第一次世界大戦に ついての内容が詳細に記されており,当時の東ヨーロッパやバルカン半島の 様子を知る為にも貴重な資料だと言える。 本論文は二章で成り立てて,第一章では第一次世界大戦の前の日本とトル コの陥った状況や国際社会での一付けを考察する。こうやって歴史的背景を 構成しながら両国の世界システムにどのような影響を与えて,どういった役 割を果たしているかは論じる。 また,第二章では小林のトルコに関する観察を取り上げるとともに伊土戦 争から第一次世界大戦に至たるまでの時期を検討する。小林が書き残した書 籍「ガラタ塔より」,外務省のレポートや論文等を基に日本の外交官が見るト ルコのイメージと,このイメージの伝え方や伝達手段,トルコに於ける小林 の情報ネットワークに触れながら,小林の活動の目的や,日本のトルコ観に 与えた影響を取り上げる。
著者
井上 裕子
出版者
北海道大学大学院文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.10, pp.219-233, 2010-12-24

1945年から1949年の台湾を舞台にした映画『悲情城市』では,史実を伝える文字画面や筆談の文字,また複数の言語によるセリフ,手紙や日記体のナレーション,ラジオ放送の音声など,豊かな手法で物語が語られている。そしてこのすべて言語にかかわる手法は視覚による文字と聴覚による音声に分けることができ,映画のなかの文字と音声の言語はそれぞれ対称的に配置され,その機能と効果を果たし,物語内容を語っている。さらにこれらの言語は,物語とともに,台湾という空間における一時の歴史的時間をも語っていることが分かる。そして,この映画のその視覚的な文字と聴覚的な音声に着目し,それらを分析・考察して浮かび上がってくるのは,情報伝達における音声言語の未全であり,一方での文字言語の十全である。映画をみるに当たって,私たちは音声で映像を補うよりは字幕を頼りにする。音声情報に十分な注意を払わずに,視覚情報に重きを置く。これはやはり,映画における音声の映像への従属を示すのだろうか。しかし,『悲情城市』では聞こえる音声が情報伝達の未全を示す一方,聞こえない音声である「沈黙」がそれを補うように伝達の十全を表わしている。音声には多くの情報が隠されており,文字は映像に組み込まれることで,映像の力に勝るとも劣らない機能を発揮する。つまりそれは,音声と映像の豊かな統合であり,そこに映画の構造における映像と音声というものを考察する一つの機会ととらえることができる。この作品では,視覚の文字,聴覚の音声が映画の構造のなかでそれぞれ対等の機能と効果を果たし,映画のなかの物語と映画の背景と,そして媒体としての映画そのものを作り上げているのである。