著者
猪野 毅
出版者
北海道大学大学院文学研究科
雑誌
北海道大学大学院文学研究科研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
no.10, pp.161-185, 2010

小論は、山川九一郎著の『奇門遁甲千金書』という書を解読するために、まずその前提として「奇門遁甲」の基本的な概念や考え方について、まとめようと試みるものである。 『四庫全書総目』子部・術数類の中に収められている奇門遁甲に関係する文献には、『遁甲演義』二巻、『奇門遁甲賦』一巻、『黄帝奇門遁甲図』一巻、『奇門要略』一巻、『太乙遁甲専征賦』一巻、『遁甲吉方直指』一巻、『奇門説要』一巻、『太乙金鏡式経』十巻、『六壬大全』十二巻 。また、『古今図書集成』や『隋書』経籍志にも遁甲の書が見える。 「遁甲」なる言葉は、史書においては『後漢書』方術伝・高獲伝・趙彦伝に初めて見え、また『陳書』『魏書』『北斉書』『南史』などにも「遁甲」の名称が見える。日本でも『日本書紀』推古天皇十年(602)条に「遁甲」が伝来したことが見える。 『遁甲演義』・『奇門遁甲秘笈大全』などにより奇門遁甲の基本概念を考えると、甲を除いた乙・丙・丁を「三奇」とし、戊・己・庚・辰・壬・癸を「六儀」として、八卦の入った洛書九宮の枠に組み合わせ、その他、休、生、傷、杜、景、死、驚、開の「八門」、直符、螣蛇、太陰、六合、勾陳、朱雀、九地、九天の「八神」(あるいは太常を入れて「九神」)、また天蓬星・天任星・天冲星・天輔星・天英星・天芮星・天柱星・天心星・天禽星の「九星」を並べて「遁甲盤」を作り上げ、占う年月日時を六十干支で表し、「天の時」「地の利」「人の和」に基づいて占いを行う。その占い方には、洛書九宮の八枠を円盤に見立てて回転移動させる排宮法と、洛書九宮の数の順序通りに移動させる飛宮法があり、山川九一郎『奇門遁甲千金書』の占い方は排宮法を用いている。 遁甲盤を並べ終えたら、それぞれ九星・八門・八神(または九神)などの表す意味や、相互の影響を考えて、吉凶を判断する。 奇門遁甲は方位学(空間の学、洛書学)であり、干支学(時間の学、暦学)でもあるあるので、奇門遁甲は時間と空間を統合した学問と言える。さらに、空間を洛書に従って九つに分け、時間を六十干支に従って六十に分割し、独自の世界観を構築している。また、九神・九星が天、九宮が地、八門が人という、「天・地・人」をイメージした世界を構成している占術なのである。
著者
髙橋 小百合
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
北海道大学大学院文学研究科研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
no.16, pp.85-100, 2016

本論文は、明治期における木戸孝允と幾松に関する言説を、二人の関係性の描写から分析し、同時代の男女交際論等、男女関係についての思潮をふまえながら、文化史中に占める二人の描写の位置および意義について考察したものである。論者には『日本近代文学会北海道支部会報』一九号掲載予定の別稿「<木戸孝允>像の生成」があり、そこでは木戸孝允が死去から明治末年までのあいだ、どのように語られていったのか、その変容と文脈パターンについて論じた。本論文では、そこで見出した六つの文脈パターンのうち、以後、大正、昭和期とより重要性を濃くするであろう<木戸と幾松> <幾松あっての木戸>について一歩踏み込んだ論を展開したつもりである。本論文の第一章「木戸表象の傾向と類別」は、木戸を語る文脈パターンについてまとめ、右の別稿の内容を引き継いだかたちである。よって、本論文の核は第二章以降にあるといえる。幾松はなぜ、木戸を語る言説のなかで存在感を増し、大衆的歓迎をうけたのか。第二章では、木戸と幾松の関係が、近代的恋愛の文脈に読み替え可能であることを論じ、同時に、幾松の芸妓という出自に着目して、近代と前近代の微妙なあわいに、ふたりの「恋愛」があることを明らかにした。第三章は、一方で二人の関係表象がもつ「復古」性について論じている。「王政復古」「一君万民」のイデオロギーとからめながら、<尊いから尊い>カミの論理で語られる木戸と、太古、国運を占う巫でありえた(元)芸妓幾松との関係が、国生み神話に準ずる「復古」の国づくりを表徴しうると指摘した。幾松あることによって、木戸のイメージは①愛妓とついには恋愛結婚を遂げた②<勤王の志士・桂小五郎>として定型化していく。それは同時に<近代>化と<復古>の二律背反、あるいは混淆を示す営為でもある。これこそ、日本の<近代化>の姿そのままであり、本論文のもっとも強調しておきたいところである。
著者
宮澤 優樹
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
北海道大学大学院文学研究科研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
no.15, pp.25-38, 2015

世界的な人気を博したシリーズの第一作である『ハリー・ポッターと賢者の石』は、一見して夢に満ちたファンタジー小説だ。だがその表面的な覆いを取り払ってみたとき、一般的に思われている明るい側面とは別の、「怖い」側面を読み取ることもできる。事実『賢者の石』では、「表面的な見かけの下にあるものを推理せよ」と言うかのように、隠蔽とその内実という組み合わせが多用されている。主人公のハリーが迎えられる世界は、普通の人間の目からは隠された世界だし、対峙することになる宿敵は、おどおどとした無難な人物の皮をかぶり、つねに近くにいる。これらはいずれも、なんの変哲もない見た目を隠れ蓑とし、ほんとうの姿を隠している。このようなプロット上の仕掛けが、物語全体についても当てはまっているのではないだろうか。作品の隠された姿へと、登場人物や情景が漏らす細部を順に追うことでたどり着くことができる。その先にあるのは、生死が軸となったハリーと宿敵との関係である。ハリーは、「例のあの人」と呼ばれ、すでに死んだはずの宿敵と共通する性質を持つ。ハリー自身もまた、生死の境におり、直接には名指しえない性質を抱えている。そのことは、ハリーを「生き残った男の子」と呼ぶことが欺瞞であり、同時に、宿敵をはっきりと名指すことが、不誠実な態度であることを示唆する。したがって、『賢者の石』が迎えた結話、「名指しにくい相手を名指す」、「前を向いて生きる」という決意は、表面的な見せかけなのだとも読める。前向きなメッセージが発せられる一方で、それとはちょうど逆の筋書きが描かれている。この物語は、児童文学という「隠蔽」と、それに並行する名状しがたい状態を描く、二重の小説なのである。
著者
閻 慧
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
北海道大学大学院文学研究科研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
no.14, pp.55-70, 2014

本稿は宮沢賢治「銀河鉄道の夜」の改稿に関して考察するものである。周知のように、「銀河鉄道の夜」は、数回の改稿を経ることにより、多彩な容貌を持っているテクストである。その多面性を捉えるため、各次稿の間の改稿過程をどのように受け止めるかは、無論重要な問題となる。従来の研究においては、「銀河鉄道の夜」の改稿問題が焦点となっているもののうち、初期形〔三〕と後期形との間に行われる改稿を中心に論じるのが圧倒的多数である。つまり、テクストの初期形〔一〕から初期形〔三〕までに行われる改稿はこれまで看過されたきらいがある。そこで本稿では、新校本全集に収録された「銀河鉄道の夜」のテクストを参照し、まず初期形内部の変容を把握し、ついで初期形から後期形までの改稿について考察する。まず、初期形〔一〕と〔二〕の特徴について考えてみる。両者において、質的な差異は殆どない。ブルカニロ博士の全能性と実験という枠組みに注目すれば、初期形〔一〕と〔二〕をブルカニロ博士の実験記録として見なすことができる。次に、初期形〔二〕から初期形〔三〕まで、作中の現実世界に関する加筆に注目し、ジョバンニを苦しめる現実状況および彼が持っている逃走願望を読み取る。そこで、ジョバンニが焦点化されることによって、初期形〔三〕を彼の逃走物語として読むことができる。続いて、後期形における労働するジョバンニの設定が誘発した鳥捕りとの関係の変化、またジョバンニの父の帰還とカムパネルラの水死についての改稿を中心に、分析を行う。それによって、変容する後期形の姿が明らかになり、ジョバンニの行方の未定着によって、「銀河鉄道の夜」という作品の未決性が見出される。以上のように、「銀河鉄道の夜」が実験記録から未決の物語までの改稿プロセスを考察する。それと同時に、初期形〔一〕から後期形まで貫通している、ジョバンニの切符、金貨、牛乳などのモチーフの役割・意味についても吟味する。「銀河鉄道の夜」の物語に潜在する未決性、また共通するモチーフの多義性の分析によって、新しい読み方を示唆する。
著者
趙 熠瑋
出版者
北海道大学大学院文学研究科
雑誌
北海道大学大学院文学研究科研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
no.13, pp.339-358, 2013

荻生徂徠は江戸幕府最盛期に伊藤仁齋と竝される古學派の儒學者である。荻生徂徠については、これまで多くの研究が積み重ねられてきた。特に、丸山眞男の『日本政治思想史研究』は後の徂徠研究に多大な影響を與えた。丸山氏は徂徠の近代性を強調し、「朱子學的思惟式とその解體」、「徂徠學の政治性」、「徂徠學における公私の分裂」などを論點として捉えた。ほかに、平石直昭、子安宣邦、吉川幸次郎の各氏も々な角度から徂徠の反朱子學という點を論じた。しかし、吉川幸次郎氏が「徂徠學案」に示したように、徂徠の學術も人生も一定不變ではなく、幾つかの段階を踏んで所謂徂徠學が形成された。1714年、徂徠49歳の頃、『園隨筆』が刊行され、1717年、『辨名』、『辨道』、『學則』が刊行された。1718年、53歳の頃、徂徠の「四書」注釋の集大成作『論語徴』が完成した。これまでの研究によれば、徂徠は基本的に朱子學を批判する立場で自らの儒學論を展開した。果たして徂徠の學術人生は終始變わらなかったのであろうか。それとも、時期によって徂徠の考えにも變化があるのであろうか。本稿では、執筆時期を異にする徂徠の著作の吟味を通じて、徂徠學の中心的概念と思われる「道」について、時間經過を辿って證した。その結果、徂徠の反朱子學的な學説に變化の過程があったことが判明した。
著者
王 玉
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
北海道大学大学院文学研究科研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
no.14, pp.83-104, 2014

大正七年(一九一八年八月)、鈴木三重吉は「世俗的な下卑た子供の読みものを排除して、子供の純粋を保全開発するため」の話及び歌を創作し、世に広める一大運動を宣言し、『赤い鳥』を発刊した。しかし、創作童話、童謡以外にも、鈴木三重吉の手による作品をはじめとする、多くの再話作品が『赤い鳥』において重要な位置を占めている。特に、第一次世界大戦中にヨーロッパの思想、文化がこれまで以上に流入するようになったことにともない、欧米の昔話の再話が『赤い鳥』に数多く掲載された。「私は、これまで世の中に出ている、多くのお伽話に対して、いつも少なからぬ不平を感じていた。ただ話が話されているというのみで、いろいろの意味の下品なもの少なくない」と当時の児童文学を手厳しく批判した三重吉は、積極的に芸術性の高い海外の作品を日本の子どもたちに紹介しようとした。しかし、外国昔話の再話作品が、どういう基準で選ばれたかはまだ明らかになっていない。ところで、昔話は残酷な場面が多く、子どもに向いていないという説があるが、大正時代の代表的な児童雑誌として、『赤い鳥』における昔話の再話作品に「殺す」「殺される」など「殺害」もそのまま残っていることが多い。「殺害」が残された理由として、昔話における「殺す」「殺される」というモチーフが単に残酷性を表わすものではなく、独自の意味を持っていることが挙げられる。本論は『赤い鳥』の欧米昔話の再話作品群を中心に、作品中の「食べる」「食べられる」「殺す」「殺される」などの場面を取り上げながらその特徴を明らかにし、そこに現れた三重吉を代表とする『赤い鳥』の編集方針とその意図を検討したい。
著者
高雄 芙美
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
北海道大学大学院文学研究科研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
no.14, pp.125-141, 2014

西日本各地で標準語化とともに関西方言化が進んでいるが広島では他地域ほど関西方言化が見られないことが指摘されている。この他地域とは異なる広島方言の特性を捉えるためには広島方言の実態を明らかにする必要がある。本稿では広島方言の「のだ」形式について,標準語,関西方言と比較し記述することで,広島方言の文法的特徴の一面を明らかにする。加藤2003,2006によると「のだ」は,命題内容について判断済みの情報である,ということを表す。また終助詞「よ」は命題内容について,発話者が排他的な知識管理をおこなう準備あること示す。どちらも話者の知識管理に関わる談話マーカーである。広島方言,関西方言では名詞化辞「の」は「ん」となり,「のだ」は広島方言では「んじゃ」,関西方言では「んや」となる。「んじゃ」「んや」の前が否定辞「ん」「へん」など撥音のときは「のじゃ」「のや」のようになる。「んじゃ」「んや」は言い切りの場合,気づき・発見の用法で使われることが多い。自分の情報を披瀝する場合は広島方言では「んよ」,関西方言では「ねん」が使われることが多い。広島方言では「*んじゃよ」とはならず「んよ」と,名詞化辞「ん」に直接「よ」がつく。伝聞の形式「んと〔んだって〕」も名詞化辞「ん」のあとにコピュラ辞が現れない。推量形や従属節などは広島方言では「んじゃろう」「んじゃけど」のように「んじゃ」が現れるが,関西方言では「んやけど」「ねんけど」のように「んや」「ねん」の両方が現れる。また「のなら」「のだったら」のような仮定形は広島方言では「んなら」が一般的で,関西方言では「なら」は使われず「んやったら」が一般的である。広島方言では従属節の「んじゃけー〔んだから〕」,「んと〔んだって〕」で在来の方言形が保たれているが,関西方言では「んやから」「んやって」のように標準語と同じ形式が使用されている。関西方言は「ねん」のような独自の方言形式を持つ一方使用頻度の高い文法形式に標準語化が見られる。広島方言は「ねん」のような独自の形式はないが,「のだ」形に用いられるような使用頻度の高い文法形式で在来の方言形を保持している。
著者
モルナール レヴェンテ
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
北海道大学大学院文学研究科研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
no.17, pp.209-228, 2017

今村昌平は「テーマ監督」である。すなわち今村の作品群はその時期々々において特定のトピックや主題を軸に構成されていることを示す。主題におけるそういった反復は,監督自身によって「ねばり」と呼ばれた。その表現を借りれば,最初の「重喜劇」とみなされる『果しなき欲望』(1958年)以降,今村は売春・強姦・近親相姦という3つのテーマにねばっていた。作品ごとに重点の置き方は異なるが,1968年までの全ての娯楽映画(『にあんちゃん』を除き)において,いずれもその主題は3つのテーマのなかから少なくとも2つ以上は選び取られているといえる。1964年制作の『赤い殺意』は藤原審爾の東京を舞台に可愛い印象の女性が強姦されるという小説を原作にテーマのみを借りた,今村昌平ならではの映画作品である。強姦を主題に近親相姦的な要素も加えて物語の舞台を監督の憧れた地方,東北へもっていった。主人公の貞子は,仙台の郊外において農地を所有する高橋家の若妻である。強盗に犯されてしまったあと強くなってゆき,彼女をまるで女中のように扱いしていた姑との上下関係を逆転させ家の権力者に上昇する。本論文では社会学と作家の志向から離れて,いくつかの新しい観点を導入する上で作品そのものに絞って分析を行なう。変化する立場において彼女自身が如何に変貌し,どのような行動をとるかという二点をめぐって『赤い殺意』を考察する上で今村昌平が「重喜劇」と呼んだ60年代の作品群と関連付けて結論を述べる。
著者
井上 裕子
出版者
北海道大学大学院文学研究科
雑誌
北海道大学大学院文学研究科研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
no.10, pp.219-233, 2010

1945年から1949年の台湾を舞台にした映画『悲情城市』では,史実を伝える文字画面や筆談の文字,また複数の言語によるセリフ,手紙や日記体のナレーション,ラジオ放送の音声など,豊かな手法で物語が語られている。そしてこのすべて言語にかかわる手法は視覚による文字と聴覚による音声に分けることができ,映画のなかの文字と音声の言語はそれぞれ対称的に配置され,その機能と効果を果たし,物語内容を語っている。さらにこれらの言語は,物語とともに,台湾という空間における一時の歴史的時間をも語っていることが分かる。そして,この映画のその視覚的な文字と聴覚的な音声に着目し,それらを分析・考察して浮かび上がってくるのは,情報伝達における音声言語の未全であり,一方での文字言語の十全である。映画をみるに当たって,私たちは音声で映像を補うよりは字幕を頼りにする。音声情報に十分な注意を払わずに,視覚情報に重きを置く。これはやはり,映画における音声の映像への従属を示すのだろうか。しかし,『悲情城市』では聞こえる音声が情報伝達の未全を示す一方,聞こえない音声である「沈黙」がそれを補うように伝達の十全を表わしている。音声には多くの情報が隠されており,文字は映像に組み込まれることで,映像の力に勝るとも劣らない機能を発揮する。つまりそれは,音声と映像の豊かな統合であり,そこに映画の構造における映像と音声というものを考察する一つの機会ととらえることができる。この作品では,視覚の文字,聴覚の音声が映画の構造のなかでそれぞれ対等の機能と効果を果たし,映画のなかの物語と映画の背景と,そして媒体としての映画そのものを作り上げているのである。
著者
井川 重乃
出版者
北海道大学大学院文学研究科
雑誌
北海道大学大学院文学研究科研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
no.12, pp.17-33, 2012

本稿では「フラクタル」三部作と称される北野武監督作品『TAKESHIS'』(二〇〇五年)、『監督・ばんざい!』(二〇〇七年)、『アキレスと亀』(二〇〇八年)を取り上げる。本三部作は映画制作、映画監督とは何かという北野武の自己言及的な側面が強く出た映画だろう。三作に共通したこれらの問題を確認し、北野武映画の系譜にどのような意味を持つのかを考察していく。その手段として監督と主演を兼任するビートたけし/北野武の身体に着目する。『TAKESHIS'』『監督・ばんざい!』で「自写」が映し出されるとき、それらは自傷的かつ「死」のイメージを持つ。それを「自写のマゾヒズム」と定義する。また『アキレスと亀』では、「自写」とともに映画内で使用される絵画、主に自画像が同じく「自写」として同様のイメージと、さらに狂気を展開するものとして検討したい。映画ではビートたけし/北野武を<合わせ鏡>で映し出し、あるいは人形化することで、身体を<像>として増殖させていく。「フラクタル」構造のように、あるいは循環小数にあらわれる循環節のように無限可能性を前提として<像> は無限に増殖している。このような<像>の一部分が、映画全体を示している構造を<換喩的>なイメージの羅列と言い換えることができるだろう。例えるなら『TAKESHIS'』の宣伝ポスターのような、一つ一つの顔が集まってビートたけしの顔を作るコラージュのようでもある。この<換喩的>なイメージは「フラクタル」=無限に繰返されていたが、三作目『アキレスと亀』において、その無限可能性の否定が描かれている。『アキレスと亀』のラストシーンで「アキレスは亀に追いついた」とテロップが表示されるとき、ゼノンのパラドクスの解消と共に、その理論の根底でもある無限可能性も否定されているのではないか。ビートたけし/北野武の身体を用いた<像>の<換喩的>なイメージは、無限増殖を止める。「自写のマゾヒズム」とその狂気の終焉を、北野武映画の転換点として評価したい。
著者
張 集歓
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
北海道大学大学院文学研究科研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
no.15, pp.19-34, 2015

本稿は,1930年代の中国華南地域において活動していた南京中央政府に対抗する政治派閥の西南派の政治姿勢を,対中央攻撃期,模索期,接近期の三つの異なる対立関係期に照合しながら,当該時期の地方政治人物及び中国政治の特質に対する検討を試みたものである。西南派の活動の軸となるものは,彼らがずっと掲げてきた「反日」「倒蒋」および「剿共」の三つの並行の政治主張であったが,政治主張は常に眼前の政治情勢に対応できるよう,シフトを繰り返されていた。対抗期の初期から中期において,彼らにとって蒋介石の南京中央政府の威圧こそが最大の敵であり,焦眉の急であったため,「抗日」の姿勢も,「抗日をしない」南京中央政府への攻撃の側面を持つことになる。その一例として,胡漢民に代表された西南派の日本の侵略に対する認識は,蒋介石と同等のものであり,同時代の中でも相当冷静で鋭い判断を下されていたのにもかかわらず,南京中央政府への対抗の基盤を強化するため,短い期間ではあったが,接近してきた日本側との「提携」が企図されていたことも確認できた。このように,当時の西南派及び西南政権は,必要となれば脅威の順位が下位にある敵とのある程度の「提携」も辞さない境地に置かれていたことの裏づけと言える。また,国内においては,西南派は初期から華北の軍事指導者らと連絡を取り合い,「華北の改造」を通じて反蒋運動を推し進めていた。同様の意図に基づいて,彼らは十九路軍が上海戦から撤退して福建に進駐すると,広東という人と地域のネットワークを駆使し,最大の反蒋連盟ともなり得る西南大連合の結成を推し進めていたが,同盟相手の福建の急進及び共産党提携に失望した彼らに,切り崩しを図る蒋介石は接近したのである。そして,数度にわたる蒋介石の譲歩と接近に対して,西南派は徐々に対抗姿勢は軟化していく。言い換えれば,彼らは,それまで情勢に応じて自らの政治主張をシフトさせてきたが,向かう方向は常に一定していた。それは,つまり中央政権への返り咲くことであった。
著者
喬旦 加布
出版者
北海道大学大学院文学研究科
雑誌
北海道大学大学院文学研究科研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
no.12, pp.103-136, 2012

チベット人地域のうち,本稿ではチベット高原東北のアムド
著者
趙 熠瑋
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
北海道大学大学院文学研究科研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
no.14, pp.37-53, 2014

「中庸」は本來『禮記』の一篇であったが、南宋の朱熹が『禮記』から「中庸」、「大學」を抽出して、『論語』や『孟子』と竝べて「四書」と指定している。「四書」をめぐって、朱子學的な解釋を施したのは『四書章句集注』である。朱子の『四書章句集注』は宋代以降の四書注釋書の中で最も權威のあるものとされている。江戸儒學の古學派の代表的學者である伊藤仁齋と荻生徂徠にそれぞれ「四書」の注釋書がされている。古學派の仁齋と徂徠は基本的に經書本來の意味を追求する立場から注釋を施し、朱子學を批判しているが、「四書」のうちに、中庸」の解釋、特に「鬼神」に關する解釋にはかなりの相違が見える。本稿では、朱熹「中庸章句」、伊藤仁齋『中庸發揮』、荻生徂徠『中庸解』を比較しながら、古學派の「鬼神論」を中心として、それぞれの異同點を檢證した。
著者
大野 裕司
出版者
北海道大学大学院文学研究科
雑誌
北海道大学大学院文学研究科研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
no.6, pp.35-53, 2006

日本の陰陽道研究の成果として、近世以来、混亂のあった禹歩と反閇の關係について、禹歩は、反閇を構成する呪術の一つに過ぎず、反閇はその他の呪術をも含む一連の儀式であることが明らかになった。また、近年の若杉家文書『小反閇作法并護身法』(1154年) の發見と公開(村山修一編『陰陽道基礎史料集成』東京美術、1987年)によって、これまで江戸期の資料に據るほかなかった反閇の儀式次第について、平安期に実際に行われていたと考えられる陰陽道の反閇を知ることができるようになった(ただし、小反閇は、數多くある反閇儀式の一つに過ぎない)。 近年の陰陽道研究の成果として特に重要なことは、陰陽道における反閇は、中國における「玉女反閉局法」に由来するということを明らかにしたことであろう。しかしながら、これまでの陰陽道研究において、玉女反閉局法は、小坂眞二氏らによる『武備志』、酒井忠夫氏による『太上六壬明鑑符陰經』の紹介があるに過ぎず(玉女閉局法はこの二書意外にも、數多くの遁甲式占の書などに記載される)、またその紹介も、部分的なものである。筆者は先に、秦代の出土資料である睡虎地秦簡『日書』に見える、出行の凶日にどうしても出行しなくてはならない時に行う儀式(この儀式には禹歩を伴う)について檢討し、また、この儀式の明清時代に至るまでの變遷についても言及した(「『日書』における禹歩と五畫地の再検討」『東方宗教』第108號、2006年)。その際、玉女反閉局法の儀式次第が見える最も古い文獻『太白陰經』を紹介し、かつ該書に載せる玉女反閉局法には禹歩が見えないことを指摘した。筆者前稿では、紙數の都合により玉女反閉局法については十分な紹介と検討を行うことができなかった。そこで、本稿では、玉女反閉局法を考察するに當たって、最も古いものである『太白陰經』に見える玉女反閉局法について、これと内容的にほぼ同一の『武經總要』の玉女局法を用いて初歩的な校勘を試み、また後世の玉女反閉局法の基礎となったと考えられる『太上六壬明鑑符陰經』と『景祐遁甲符應經』の玉女反閉局法についても初歩的な校勘を試みる。
著者
池田 誠
出版者
北海道大学大学院文学研究科
雑誌
北海道大学大学院文学研究科研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
no.10, pp.21-33, 2010

本稿では、ジョン・ロールズの『正義論』における功利主義批判のキーワード「人格の区分の重視(taking the distinction between persons seriously)」について考察する。ロールズによれば、功利主義やそれが提案する道徳原理である功利原理は現実の人々の「人格の区分」を重視しない。この批判は、功利主義は全体の功利の最大化のためなら平等や公正な分配を無視した政策でさえ支持するという政策・制度レベルの批判ではない。むしろこれは、功利主義は功利原理の各人への「正当化」および正当化理由のあり方に対し無頓着であるという、道徳理論・方法論レベルの批判である。ロールズによれば、功利主義は人格を、「不偏の観察者」という想像上の管理者によって快い経験や満足を配分されるのを待つ単なる平等な「容器」のようなものとみなす。だがロールズによれば、われわれの常識道徳は、人格を、自らに影響を与える行為・制度に対し、自らの観点から納得の行く正当化理由の提示を請求する権利を持つものとみなしている。この各人の独自の観点や正当化理由への請求権を認めること、これこそが「人格の区分」を重視することにほかならない。以上の事柄を『正義論』での記述に即してまとめたのち、私は、アンソニー・ラディンによるこの批判の分析・論点整理(Laden 2004)に依拠し、ロールズ自身に向けられてきた「人格の区分の軽視」批判が、ロールズ正義論の全体を把握し損ね、近視眼的に眺めてしまうがゆえの誤りであることを示すとともに、ロールズの「人格の区分」批判の論点が功利主義の根底に潜む「非民主的」性格にあったことを明らかにする。その後、結論として、ラディンの分析に対する私なりの考えと異論を述べるとともに、ロールズ正義論が現代倫理学において持つ意義について触れたい。
著者
北郷 彩
出版者
北海道大学大学院文学研究科
雑誌
北海道大学大学院文学研究科研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
no.13, pp.1-23, 2013

『トピカ』A 巻においてアリストテレスは,推論を用いた対話形式の議論を弁証術的推論として方法化することを試みている。本稿の狙いは,「共有見解」や「検証吟味」等のキーワードによってアリストテレス独自の仕方で特徴づけられる弁証術的推論が,そもそもいかなる技術として構想されているかを,各々の概念の分析を通じて考察することである。弁証術的推論は,共有見解を前提命題とする推論であることにおいて,他の種類の推論すなわち論証や詭弁的推論等から区別される。共有見解は多数の人によってそう思われることどもという仕方で,例えば厳密に真として確立された知識とは異なる次元で特徴づけられる。この特徴の故に弁証術的推論は,一つには特定の諸原理によって基礎づけられていない命題を扱うことができ,推論一般の規定に従って挙げられる推論の種類に幅を持たせている。もう一つには,弁証術的推論においては肯定と否定の命題対の双方が推論の前提命題の候補となることができ,その各々の推論の導く結果を検討することが可能である。これらの特徴の故に,命題の検証吟味という弁証術に固有の役割が実現する。すなわち,諸学問領域における原理は,その領域の第一のものであるが故に,領域の内部から検討を与えることが不可能であるが,共有見解に基づく弁証術的推論を用いるならばそうした個々の原理に属さない共有見解からそれらの原理について検討を加えることが可能となる。そうした検証吟味の方法化は,具体的には命題の確立と覆しの方法化によって実現が試みられる。命題の確立と覆しを論拠づける諸観点はトポスと呼ばれ,プレディカビリアと呼ばれる文-下位構成要素と,カテゴリーの分類の各々の特徴を基礎として構成されている。これらが成立条件を満たしているか否かを検討することによって,命題が適切に確立されているか,或いは覆されるべきかの検討が可能となる。
著者
遠山 景広
出版者
北海道大学大学院文学研究科
雑誌
北海道大学大学院文学研究科研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
no.13, pp.417-436, 2013

社会的共通資本は,主に産業基盤を中心として考察の対象となり,中でも社会インフラの整備は経済的な理由を優先して進められてきた。社会的共通資本が注目された高度成長期には,社会インフラの整備は国民の生活と経済力という2つの意味から全体社会を向上させるとされ目標の1つに挙げられていた。個人の生活の充実は,産業への寄与と結びつけられた上で全体社会へと還元されると見做されたため,議論には主に経済的な視点が反映されてきたのである。1950~1960年代の社会的共通資本の配分は高度成長期の特性を表し,産業基盤に8割,生活基盤に2割と振り分けられており,産業基盤の偏重傾向を示すものとされる。現代では,社会的共通資本に期待される役割は生活基盤に重点が移行している。生活基盤としての側面については,1970年代の都市化に対しシビル・ミニマムとして議論され,生活権という観点から個々の生活における最低限が論じられた。今日は,育児や介護の社会化など個々の生活を考慮した,社会的共通資本の提供段階に目を向ける必要性が高まっている。しかし,これまでの議論は主に制度の設定や資本の設置による経済学的な意義や効率についての指摘にとどまり,利用段階での提供者と利用者に観点を移した議論はまだ少ない。これは,高度成長期には社会的共通資本の設置が不十分で,どのような視点から資本整備を進めることができるか,いわば設置の正当化に焦点が残っていたことも影響している。しかし,現代の社会的共通資本に求められるのは,個人の利用を前提として個々の社会的行為が関与する機能から政策を評価する段階にあると考えられる。本稿では,社会的共通資本を産業基盤と生活基盤の2面から検討し,生活基盤における新たな人間関係を形成する機能を考察する。