著者
猪野 毅
出版者
北海道大学大学院文学研究科
雑誌
北海道大学大学院文学研究科研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
no.10, pp.161-185, 2010

小論は、山川九一郎著の『奇門遁甲千金書』という書を解読するために、まずその前提として「奇門遁甲」の基本的な概念や考え方について、まとめようと試みるものである。 『四庫全書総目』子部・術数類の中に収められている奇門遁甲に関係する文献には、『遁甲演義』二巻、『奇門遁甲賦』一巻、『黄帝奇門遁甲図』一巻、『奇門要略』一巻、『太乙遁甲専征賦』一巻、『遁甲吉方直指』一巻、『奇門説要』一巻、『太乙金鏡式経』十巻、『六壬大全』十二巻 。また、『古今図書集成』や『隋書』経籍志にも遁甲の書が見える。 「遁甲」なる言葉は、史書においては『後漢書』方術伝・高獲伝・趙彦伝に初めて見え、また『陳書』『魏書』『北斉書』『南史』などにも「遁甲」の名称が見える。日本でも『日本書紀』推古天皇十年(602)条に「遁甲」が伝来したことが見える。 『遁甲演義』・『奇門遁甲秘笈大全』などにより奇門遁甲の基本概念を考えると、甲を除いた乙・丙・丁を「三奇」とし、戊・己・庚・辰・壬・癸を「六儀」として、八卦の入った洛書九宮の枠に組み合わせ、その他、休、生、傷、杜、景、死、驚、開の「八門」、直符、螣蛇、太陰、六合、勾陳、朱雀、九地、九天の「八神」(あるいは太常を入れて「九神」)、また天蓬星・天任星・天冲星・天輔星・天英星・天芮星・天柱星・天心星・天禽星の「九星」を並べて「遁甲盤」を作り上げ、占う年月日時を六十干支で表し、「天の時」「地の利」「人の和」に基づいて占いを行う。その占い方には、洛書九宮の八枠を円盤に見立てて回転移動させる排宮法と、洛書九宮の数の順序通りに移動させる飛宮法があり、山川九一郎『奇門遁甲千金書』の占い方は排宮法を用いている。 遁甲盤を並べ終えたら、それぞれ九星・八門・八神(または九神)などの表す意味や、相互の影響を考えて、吉凶を判断する。 奇門遁甲は方位学(空間の学、洛書学)であり、干支学(時間の学、暦学)でもあるあるので、奇門遁甲は時間と空間を統合した学問と言える。さらに、空間を洛書に従って九つに分け、時間を六十干支に従って六十に分割し、独自の世界観を構築している。また、九神・九星が天、九宮が地、八門が人という、「天・地・人」をイメージした世界を構成している占術なのである。
著者
髙橋 小百合
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
北海道大学大学院文学研究科研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
no.16, pp.85-100, 2016

本論文は、明治期における木戸孝允と幾松に関する言説を、二人の関係性の描写から分析し、同時代の男女交際論等、男女関係についての思潮をふまえながら、文化史中に占める二人の描写の位置および意義について考察したものである。論者には『日本近代文学会北海道支部会報』一九号掲載予定の別稿「<木戸孝允>像の生成」があり、そこでは木戸孝允が死去から明治末年までのあいだ、どのように語られていったのか、その変容と文脈パターンについて論じた。本論文では、そこで見出した六つの文脈パターンのうち、以後、大正、昭和期とより重要性を濃くするであろう<木戸と幾松> <幾松あっての木戸>について一歩踏み込んだ論を展開したつもりである。本論文の第一章「木戸表象の傾向と類別」は、木戸を語る文脈パターンについてまとめ、右の別稿の内容を引き継いだかたちである。よって、本論文の核は第二章以降にあるといえる。幾松はなぜ、木戸を語る言説のなかで存在感を増し、大衆的歓迎をうけたのか。第二章では、木戸と幾松の関係が、近代的恋愛の文脈に読み替え可能であることを論じ、同時に、幾松の芸妓という出自に着目して、近代と前近代の微妙なあわいに、ふたりの「恋愛」があることを明らかにした。第三章は、一方で二人の関係表象がもつ「復古」性について論じている。「王政復古」「一君万民」のイデオロギーとからめながら、<尊いから尊い>カミの論理で語られる木戸と、太古、国運を占う巫でありえた(元)芸妓幾松との関係が、国生み神話に準ずる「復古」の国づくりを表徴しうると指摘した。幾松あることによって、木戸のイメージは①愛妓とついには恋愛結婚を遂げた②<勤王の志士・桂小五郎>として定型化していく。それは同時に<近代>化と<復古>の二律背反、あるいは混淆を示す営為でもある。これこそ、日本の<近代化>の姿そのままであり、本論文のもっとも強調しておきたいところである。
著者
宮澤 優樹
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
北海道大学大学院文学研究科研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
no.15, pp.25-38, 2015

世界的な人気を博したシリーズの第一作である『ハリー・ポッターと賢者の石』は、一見して夢に満ちたファンタジー小説だ。だがその表面的な覆いを取り払ってみたとき、一般的に思われている明るい側面とは別の、「怖い」側面を読み取ることもできる。事実『賢者の石』では、「表面的な見かけの下にあるものを推理せよ」と言うかのように、隠蔽とその内実という組み合わせが多用されている。主人公のハリーが迎えられる世界は、普通の人間の目からは隠された世界だし、対峙することになる宿敵は、おどおどとした無難な人物の皮をかぶり、つねに近くにいる。これらはいずれも、なんの変哲もない見た目を隠れ蓑とし、ほんとうの姿を隠している。このようなプロット上の仕掛けが、物語全体についても当てはまっているのではないだろうか。作品の隠された姿へと、登場人物や情景が漏らす細部を順に追うことでたどり着くことができる。その先にあるのは、生死が軸となったハリーと宿敵との関係である。ハリーは、「例のあの人」と呼ばれ、すでに死んだはずの宿敵と共通する性質を持つ。ハリー自身もまた、生死の境におり、直接には名指しえない性質を抱えている。そのことは、ハリーを「生き残った男の子」と呼ぶことが欺瞞であり、同時に、宿敵をはっきりと名指すことが、不誠実な態度であることを示唆する。したがって、『賢者の石』が迎えた結話、「名指しにくい相手を名指す」、「前を向いて生きる」という決意は、表面的な見せかけなのだとも読める。前向きなメッセージが発せられる一方で、それとはちょうど逆の筋書きが描かれている。この物語は、児童文学という「隠蔽」と、それに並行する名状しがたい状態を描く、二重の小説なのである。
著者
閻 慧
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
北海道大学大学院文学研究科研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
no.14, pp.55-70, 2014

本稿は宮沢賢治「銀河鉄道の夜」の改稿に関して考察するものである。周知のように、「銀河鉄道の夜」は、数回の改稿を経ることにより、多彩な容貌を持っているテクストである。その多面性を捉えるため、各次稿の間の改稿過程をどのように受け止めるかは、無論重要な問題となる。従来の研究においては、「銀河鉄道の夜」の改稿問題が焦点となっているもののうち、初期形〔三〕と後期形との間に行われる改稿を中心に論じるのが圧倒的多数である。つまり、テクストの初期形〔一〕から初期形〔三〕までに行われる改稿はこれまで看過されたきらいがある。そこで本稿では、新校本全集に収録された「銀河鉄道の夜」のテクストを参照し、まず初期形内部の変容を把握し、ついで初期形から後期形までの改稿について考察する。まず、初期形〔一〕と〔二〕の特徴について考えてみる。両者において、質的な差異は殆どない。ブルカニロ博士の全能性と実験という枠組みに注目すれば、初期形〔一〕と〔二〕をブルカニロ博士の実験記録として見なすことができる。次に、初期形〔二〕から初期形〔三〕まで、作中の現実世界に関する加筆に注目し、ジョバンニを苦しめる現実状況および彼が持っている逃走願望を読み取る。そこで、ジョバンニが焦点化されることによって、初期形〔三〕を彼の逃走物語として読むことができる。続いて、後期形における労働するジョバンニの設定が誘発した鳥捕りとの関係の変化、またジョバンニの父の帰還とカムパネルラの水死についての改稿を中心に、分析を行う。それによって、変容する後期形の姿が明らかになり、ジョバンニの行方の未定着によって、「銀河鉄道の夜」という作品の未決性が見出される。以上のように、「銀河鉄道の夜」が実験記録から未決の物語までの改稿プロセスを考察する。それと同時に、初期形〔一〕から後期形まで貫通している、ジョバンニの切符、金貨、牛乳などのモチーフの役割・意味についても吟味する。「銀河鉄道の夜」の物語に潜在する未決性、また共通するモチーフの多義性の分析によって、新しい読み方を示唆する。
著者
大野 裕司
出版者
北海道大学大学院文学研究科
雑誌
北海道大学大学院文学研究科研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
no.6, pp.35-53, 2006

日本の陰陽道研究の成果として、近世以来、混亂のあった禹歩と反閇の關係について、禹歩は、反閇を構成する呪術の一つに過ぎず、反閇はその他の呪術をも含む一連の儀式であることが明らかになった。また、近年の若杉家文書『小反閇作法并護身法』(1154年) の發見と公開(村山修一編『陰陽道基礎史料集成』東京美術、1987年)によって、これまで江戸期の資料に據るほかなかった反閇の儀式次第について、平安期に実際に行われていたと考えられる陰陽道の反閇を知ることができるようになった(ただし、小反閇は、數多くある反閇儀式の一つに過ぎない)。 近年の陰陽道研究の成果として特に重要なことは、陰陽道における反閇は、中國における「玉女反閉局法」に由来するということを明らかにしたことであろう。しかしながら、これまでの陰陽道研究において、玉女反閉局法は、小坂眞二氏らによる『武備志』、酒井忠夫氏による『太上六壬明鑑符陰經』の紹介があるに過ぎず(玉女閉局法はこの二書意外にも、數多くの遁甲式占の書などに記載される)、またその紹介も、部分的なものである。筆者は先に、秦代の出土資料である睡虎地秦簡『日書』に見える、出行の凶日にどうしても出行しなくてはならない時に行う儀式(この儀式には禹歩を伴う)について檢討し、また、この儀式の明清時代に至るまでの變遷についても言及した(「『日書』における禹歩と五畫地の再検討」『東方宗教』第108號、2006年)。その際、玉女反閉局法の儀式次第が見える最も古い文獻『太白陰經』を紹介し、かつ該書に載せる玉女反閉局法には禹歩が見えないことを指摘した。筆者前稿では、紙數の都合により玉女反閉局法については十分な紹介と検討を行うことができなかった。そこで、本稿では、玉女反閉局法を考察するに當たって、最も古いものである『太白陰經』に見える玉女反閉局法について、これと内容的にほぼ同一の『武經總要』の玉女局法を用いて初歩的な校勘を試み、また後世の玉女反閉局法の基礎となったと考えられる『太上六壬明鑑符陰經』と『景祐遁甲符應經』の玉女反閉局法についても初歩的な校勘を試みる。
著者
シリヌット クーチャルーンパイブーン
出版者
北海道大学大学院文学研究科
雑誌
北海道大学大学院文学研究科研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
no.13, pp.475-493, 2013

タイにおける学生運動は,言論の自由を含む1968年の憲法公布をきっかけに,様々な動きが見られるようになった。本稿では,新聞記事の分析を通じて,事例として取り上げた「反野口運動」と「日本製品不買運動」の背景や関連を考察した上で,タイにおける学生運動の展開かつ運動の成否に関わった資源や運動に貢献した政治的機会の観点から考察を進める。「野口キック・ボクシング・ジム事件」による「反野口運動」及び「日本製品不買運動」は,いずれもタイにおける日本の経済侵略に対する不満や不安感が高揚していた状況の中で起きたものである。「反野口運動」において,新聞記事を分析した結果,「ムアイ・タイ」を「キック・ボクシング」と呼んでいることや野口のムアイ・タイに対する捉え方が,タイ人の怒りを招いた一つの原因であると論じられる。また,「反野口運動」は,学生運動としての位置付けはこれまでされていないが,学生が大きな役割を果たしていたとは言える。一方「日本製品不買運動」は,タイにおける初めての本格的な学生運動であったと評価されている。運動を呼び起こした要因としては,日本のタイに対する経済侵略への不安及び不満が挙げられるが,他にも当時の独裁政権に対する不満が日本に転移して表現され,日本がスケープゴートにされたということも考えられる。両運動の関連については,「野口キック・ボクシング・ジム事件」は「日本製品不買運動」を導く口火であったと言える。「野口キック・ボクシング・ジム事件」によって,運動のモジュールを獲得した新聞と学生は,同様のパターンを用いて一個の国を攻撃対象とした大規模な「日本製品不買運動」を展開することができたと考えることもできる。運動の成否を決定する資源について,本稿では①良心的支持者による物資的援助,②社会問題改善に対する意識を強く持つ大量の学生,③小規模の運動によるにノウハウ,④タイ全国学生センターと学内における少数のセミナーグループといった学生ネットワーク,そして,⑤政治的機会の増加,といった五つの資源が運動の成否に貢献したと論じる。
著者
趙 熠瑋
出版者
北海道大学大学院文学研究科
雑誌
北海道大学大学院文学研究科研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
no.13, pp.339-358, 2013

荻生徂徠は江戸幕府最盛期に伊藤仁齋と竝される古學派の儒學者である。荻生徂徠については、これまで多くの研究が積み重ねられてきた。特に、丸山眞男の『日本政治思想史研究』は後の徂徠研究に多大な影響を與えた。丸山氏は徂徠の近代性を強調し、「朱子學的思惟式とその解體」、「徂徠學の政治性」、「徂徠學における公私の分裂」などを論點として捉えた。ほかに、平石直昭、子安宣邦、吉川幸次郎の各氏も々な角度から徂徠の反朱子學という點を論じた。しかし、吉川幸次郎氏が「徂徠學案」に示したように、徂徠の學術も人生も一定不變ではなく、幾つかの段階を踏んで所謂徂徠學が形成された。1714年、徂徠49歳の頃、『園隨筆』が刊行され、1717年、『辨名』、『辨道』、『學則』が刊行された。1718年、53歳の頃、徂徠の「四書」注釋の集大成作『論語徴』が完成した。これまでの研究によれば、徂徠は基本的に朱子學を批判する立場で自らの儒學論を展開した。果たして徂徠の學術人生は終始變わらなかったのであろうか。それとも、時期によって徂徠の考えにも變化があるのであろうか。本稿では、執筆時期を異にする徂徠の著作の吟味を通じて、徂徠學の中心的概念と思われる「道」について、時間經過を辿って證した。その結果、徂徠の反朱子學的な學説に變化の過程があったことが判明した。
著者
王 玉
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
北海道大学大学院文学研究科研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
no.14, pp.83-104, 2014

大正七年(一九一八年八月)、鈴木三重吉は「世俗的な下卑た子供の読みものを排除して、子供の純粋を保全開発するため」の話及び歌を創作し、世に広める一大運動を宣言し、『赤い鳥』を発刊した。しかし、創作童話、童謡以外にも、鈴木三重吉の手による作品をはじめとする、多くの再話作品が『赤い鳥』において重要な位置を占めている。特に、第一次世界大戦中にヨーロッパの思想、文化がこれまで以上に流入するようになったことにともない、欧米の昔話の再話が『赤い鳥』に数多く掲載された。「私は、これまで世の中に出ている、多くのお伽話に対して、いつも少なからぬ不平を感じていた。ただ話が話されているというのみで、いろいろの意味の下品なもの少なくない」と当時の児童文学を手厳しく批判した三重吉は、積極的に芸術性の高い海外の作品を日本の子どもたちに紹介しようとした。しかし、外国昔話の再話作品が、どういう基準で選ばれたかはまだ明らかになっていない。ところで、昔話は残酷な場面が多く、子どもに向いていないという説があるが、大正時代の代表的な児童雑誌として、『赤い鳥』における昔話の再話作品に「殺す」「殺される」など「殺害」もそのまま残っていることが多い。「殺害」が残された理由として、昔話における「殺す」「殺される」というモチーフが単に残酷性を表わすものではなく、独自の意味を持っていることが挙げられる。本論は『赤い鳥』の欧米昔話の再話作品群を中心に、作品中の「食べる」「食べられる」「殺す」「殺される」などの場面を取り上げながらその特徴を明らかにし、そこに現れた三重吉を代表とする『赤い鳥』の編集方針とその意図を検討したい。
著者
高雄 芙美
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
北海道大学大学院文学研究科研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
no.14, pp.125-141, 2014

西日本各地で標準語化とともに関西方言化が進んでいるが広島では他地域ほど関西方言化が見られないことが指摘されている。この他地域とは異なる広島方言の特性を捉えるためには広島方言の実態を明らかにする必要がある。本稿では広島方言の「のだ」形式について,標準語,関西方言と比較し記述することで,広島方言の文法的特徴の一面を明らかにする。加藤2003,2006によると「のだ」は,命題内容について判断済みの情報である,ということを表す。また終助詞「よ」は命題内容について,発話者が排他的な知識管理をおこなう準備あること示す。どちらも話者の知識管理に関わる談話マーカーである。広島方言,関西方言では名詞化辞「の」は「ん」となり,「のだ」は広島方言では「んじゃ」,関西方言では「んや」となる。「んじゃ」「んや」の前が否定辞「ん」「へん」など撥音のときは「のじゃ」「のや」のようになる。「んじゃ」「んや」は言い切りの場合,気づき・発見の用法で使われることが多い。自分の情報を披瀝する場合は広島方言では「んよ」,関西方言では「ねん」が使われることが多い。広島方言では「*んじゃよ」とはならず「んよ」と,名詞化辞「ん」に直接「よ」がつく。伝聞の形式「んと〔んだって〕」も名詞化辞「ん」のあとにコピュラ辞が現れない。推量形や従属節などは広島方言では「んじゃろう」「んじゃけど」のように「んじゃ」が現れるが,関西方言では「んやけど」「ねんけど」のように「んや」「ねん」の両方が現れる。また「のなら」「のだったら」のような仮定形は広島方言では「んなら」が一般的で,関西方言では「なら」は使われず「んやったら」が一般的である。広島方言では従属節の「んじゃけー〔んだから〕」,「んと〔んだって〕」で在来の方言形が保たれているが,関西方言では「んやから」「んやって」のように標準語と同じ形式が使用されている。関西方言は「ねん」のような独自の方言形式を持つ一方使用頻度の高い文法形式に標準語化が見られる。広島方言は「ねん」のような独自の形式はないが,「のだ」形に用いられるような使用頻度の高い文法形式で在来の方言形を保持している。
著者
周 菲菲
出版者
北海道大学大学院文学研究科
雑誌
北海道大学大学院文学研究科研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
no.13, pp.111-135, 2013

この論文は,観光研究におけるアクター・ネットワーク論的なアプローチ の必然性と可能性を探求する。まず,従来の観光研究における全体論的な視 点の欠如とモノについての考察の不足といった問題点を指摘する。観光地対 観光者という二分法や,イメージ論のような表象分析の枠では,観光実践の 複雑性を十分に研究することができない。ここで,関係の生成変化に注目し, 人やモノ等の断片的な諸要素を,諸関係を構成する対称的なアクターと見て, それらのアクターが織り成すネットワークの動態の過程を把握するアク ター・ネットワーク論に注目する。そして,観光におけるモノの物質性と場 所の多元性の存在を論証し,観光者のような特定のアクターが観光ネット ワークの中で他のアクター(地域イメージ,モノ等)を翻訳し,自らの実践 に導く様相を,先行研究に基づいてまとめる。さらに,中国人の北海道観光 を例として,アクター・ネットワーク論に基づき,個的実践の共有化の過程 と,地域イメージのブラックボックス化の過程をまとめた。最後に,観光研 究へのアクター・ネットワーク論的アプローチを,地域の複数性を提示する 研究として提示してみた。
著者
井川 重乃
出版者
北海道大学大学院文学研究科
雑誌
北海道大学大学院文学研究科研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
no.12, pp.17-33, 2012

本稿では「フラクタル」三部作と称される北野武監督作品『TAKESHIS'』(二〇〇五年)、『監督・ばんざい!』(二〇〇七年)、『アキレスと亀』(二〇〇八年)を取り上げる。本三部作は映画制作、映画監督とは何かという北野武の自己言及的な側面が強く出た映画だろう。三作に共通したこれらの問題を確認し、北野武映画の系譜にどのような意味を持つのかを考察していく。その手段として監督と主演を兼任するビートたけし/北野武の身体に着目する。『TAKESHIS'』『監督・ばんざい!』で「自写」が映し出されるとき、それらは自傷的かつ「死」のイメージを持つ。それを「自写のマゾヒズム」と定義する。また『アキレスと亀』では、「自写」とともに映画内で使用される絵画、主に自画像が同じく「自写」として同様のイメージと、さらに狂気を展開するものとして検討したい。映画ではビートたけし/北野武を<合わせ鏡>で映し出し、あるいは人形化することで、身体を<像>として増殖させていく。「フラクタル」構造のように、あるいは循環小数にあらわれる循環節のように無限可能性を前提として<像> は無限に増殖している。このような<像>の一部分が、映画全体を示している構造を<換喩的>なイメージの羅列と言い換えることができるだろう。例えるなら『TAKESHIS'』の宣伝ポスターのような、一つ一つの顔が集まってビートたけしの顔を作るコラージュのようでもある。この<換喩的>なイメージは「フラクタル」=無限に繰返されていたが、三作目『アキレスと亀』において、その無限可能性の否定が描かれている。『アキレスと亀』のラストシーンで「アキレスは亀に追いついた」とテロップが表示されるとき、ゼノンのパラドクスの解消と共に、その理論の根底でもある無限可能性も否定されているのではないか。ビートたけし/北野武の身体を用いた<像>の<換喩的>なイメージは、無限増殖を止める。「自写のマゾヒズム」とその狂気の終焉を、北野武映画の転換点として評価したい。
著者
アルトゥン ウグル
出版者
北海道大学大学院文学研究科
雑誌
北海道大学大学院文学研究科研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
no.12, pp.67-84, 2012

日本は19世紀後半の開国以後,資本主義社会の一部となっていく過程において,活発な情報収集活動が行われた。その一つとして当時のオスマン帝国を訪れた記録も残されている。彼らが当時書いた自身の日記や紀行,新聞記事,そして手紙でのやり取り等は今も数多く現存しており,これらが日本におけるトルコに関する知識の基盤となったと推測される。よって,これらの資料は日本とトルコの関係を検討する上で重要になると考えられる。1911年にイスタンブールに留学に来た小林哲之助はトルコの政治的,軍事的,外交上の事情を新聞や外務省にレポートを送るなどの形で伝え,日本に於いてトルコに関する情報を創造する先行者の一人であった。小林が集めた情報は当時のトルコの事情をあらゆる場面で取り上げる上でかなり重要だと思われる。外務省職員であった小林哲之助は,本国より奨学金を得てトルコに留学した。彼は留学生という身分ながら,トルコ国内でその周辺諸国である東ヨーロッパやバルカン半島の事情をレポートし,これらの情報は大阪朝日新聞の鳥居素川と連絡を密にとりあった。鳥居素川の協力の下それらの情報を「ガラタ塔より」という書籍にてまとめている。その中には,小林哲之助がトルコに留学している間に勃発した伊土戦争,バルカン戦争や第一次世界大戦についての内容が詳細に記されており,当時の東ヨーロッパやバルカン半島の様子を知る為にも貴重な資料だと言える。本論文は二章で成り立てて,第一章では第一次世界大戦の前の日本とトルコの陥った状況や国際社会での一付けを考察する。こうやって歴史的背景を構成しながら両国の世界システムにどのような影響を与えて,どういった役割を果たしているかは論じる。また,第二章では小林のトルコに関する観察を取り上げるとともに伊土戦争から第一次世界大戦に至たるまでの時期を検討する。小林が書き残した書籍「ガラタ塔より」,外務省のレポートや論文等を基に日本の外交官が見るトルコのイメージと,このイメージの伝え方や伝達手段,トルコに於ける小林の情報ネットワークに触れながら,小林の活動の目的や,日本のトルコ観に与えた影響を取り上げる。
著者
袁 嘉孜
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
北海道大学大学院文学研究科研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
no.18, pp.31-50, 2018

『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』では,見てわかるように,「世界の終り」と「ハードボイルド・ワンダーランド」という二つのタイトルの物語が並行して展開されている。『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』をはじめ,それ以降の村上春樹の小説には,「パラレル・ワールド」構造が著しいと言われている。ところが,「世界の終り」世界と「ハードボイルド・ワンダーランド」世界は,「パラレル・ワールド」ではなく,「異世界」であると主張する。 「ハードボイルド・ワンダーランド」世界では,「私」と「孫娘」の二人が車に乗って,〈地上空間〉を走ったら博士のオフィスに着く。そして、地下にある〈研究室〉,すわなち〈内部〉に到達し,さらに地下の方に潜んでいる〈やみくろたちの聖域〉も含む〈内部の内部〉へ下りて行くのである。こうして考えれば,「ハードボイルド・ワンダーランド」世界における複数の空間は入れ子構造になっている。入れ子構造となっている「ハードボイルド・ワンダーランド」世界において垂直的な位相が顕著なのに対して,「世界の終り」世界「世界の終り」世界は,「ハードボイルド・ワンダーランド」世界の「再生」として開いた空間として、何かの欠落が生じたためにより平面的構造となっている。もしそれが真であれば,この意味で,「世界の終り」世界における「影」の〈脱出〉にも,何かの欠落が生じたために果たされないとしか考えられない。 本研究は,時間の視点に着眼し,第三回路の起動によって始まる二つの物語の関わりを考察したうえで,「私」と「僕」の行動や移動によって広がっていく二つの世界の空間構成を明らかにする。それに加えて,第三回路の人工性に着眼し,「私」の成長物語としてではなく,村上春樹の長編小説における個とシステムの対置を元に,本作について再考する。
著者
桒原 彩
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
北海道大学大学院文学研究科研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
no.18, pp.125-139, 2018

2014年全米公開のティム・バートン監督作品通算19作目にあたる『ビッグ・アイズ』は,実際に起ったゴーストペインター事件を基にした物語である。ゴーストペインターである妻(マーガレット)の表象は,実際のところその夫(ウォルター)と対となって,バートン作品の大きな主題である「疎外」をかつてなく形式的に分断された2つの方向から描き出している。本稿は『ビッグ・アイズ』における疎外を二者の立場それぞれに分析し,物語や演出の詳細な作品分析を踏まえ,まなざし論を経由し,ティム・バートンの作家性を「疎外」とそこから希求される「身体」というキーワードをもちいて考察していく。これまでティム・バートンの作家性は社会におけるアウトサイダー的表象のなかにその多くが見出されており,本稿もその流れを汲むものであるのは言を俟たない。しかし,まなざしを改めて映画の装置として分析に組み込むとき,それは社会と個,表象と身体を結ぶ媒介として,バートンの主題である「疎外」をより明確に浮き彫りにしていく。 本稿において,二者の疎外の分析を通じて見いだされるのは身体と表象の対立である。ゴーストペインターであるマーガレットが自身の表象/記号を社会的に奪われた身体だけの存在としてあるのに対し,ウォルターは身体をほとんどなきものとしてイメージの表面を漂う分裂的な表象/記号そのものである。しかしそれらの疎外は,BIG EYESがまなざしのアレゴリーとして働くとき,そのまなざしを原動力として,いずれも異なったかたちで身体を求めることとなる。
著者
モルナール レヴェンテ
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
北海道大学大学院文学研究科研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
no.17, pp.209-228, 2017

今村昌平は「テーマ監督」である。すなわち今村の作品群はその時期々々において特定のトピックや主題を軸に構成されていることを示す。主題におけるそういった反復は,監督自身によって「ねばり」と呼ばれた。その表現を借りれば,最初の「重喜劇」とみなされる『果しなき欲望』(1958年)以降,今村は売春・強姦・近親相姦という3つのテーマにねばっていた。作品ごとに重点の置き方は異なるが,1968年までの全ての娯楽映画(『にあんちゃん』を除き)において,いずれもその主題は3つのテーマのなかから少なくとも2つ以上は選び取られているといえる。1964年制作の『赤い殺意』は藤原審爾の東京を舞台に可愛い印象の女性が強姦されるという小説を原作にテーマのみを借りた,今村昌平ならではの映画作品である。強姦を主題に近親相姦的な要素も加えて物語の舞台を監督の憧れた地方,東北へもっていった。主人公の貞子は,仙台の郊外において農地を所有する高橋家の若妻である。強盗に犯されてしまったあと強くなってゆき,彼女をまるで女中のように扱いしていた姑との上下関係を逆転させ家の権力者に上昇する。本論文では社会学と作家の志向から離れて,いくつかの新しい観点を導入する上で作品そのものに絞って分析を行なう。変化する立場において彼女自身が如何に変貌し,どのような行動をとるかという二点をめぐって『赤い殺意』を考察する上で今村昌平が「重喜劇」と呼んだ60年代の作品群と関連付けて結論を述べる。
著者
姜 銓鎬
出版者
北海道大学大学院文学研究科
雑誌
北海道大学大学院文学研究科研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
no.13, pp.1-15, 2013

林芙美子(一九〇三〜一九五一)の『放浪記』は、一九三〇年に初版が発刊されて以来、一九三九年の改訂版を経て二〇一二年の復元版に至るまで、数多くの版本が存在する作品である。ところで、戦後の版本は、おおよそ改訂版を版本としており、最近発刊された版本の中では、初版を底本としているものが多い。つまり、数多くの『放浪記』の中で、この二種類の版本は一番重要な底本になっているのである。改造社から出た『放浪記』は、整理されていない野性味を持つ作品として認識されている。一方、新潮社から出た『放浪記|決定版|』(改訂版)は、構成的な部分において、一層整理された形態になっている。こういう特徴は、それぞれの版本を比較することで確認することができる。しかし、今までの『放浪記』研究は、作品の成立において出版社の変更ということを看過し、これについて論じる研究も登場していない。そこで本論では一九三〇年の改造社版『放浪記』及び一九三九年の新潮社版『放浪記|決定版|』を中心として、その成立過程をまとめながら、出版社の変更の原因と理由について考察しようとする。また、先行研究で改訂版を初版より低く評価する傾向に注目し、そのような批判意見について再考する。改訂版に対する批判意見として共通するのは、『放浪記』のステレオタイプ化した「ルンペン文学」というイメージを放棄していない点である。しかし、これこそ『放浪記』に対する批判を払拭しようとした芙美子の意思とは正反対の意見であり、改訂版の意義を完全に無視することになる。
著者
井上 裕子
出版者
北海道大学大学院文学研究科
雑誌
北海道大学大学院文学研究科研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
no.10, pp.219-233, 2010

1945年から1949年の台湾を舞台にした映画『悲情城市』では,史実を伝える文字画面や筆談の文字,また複数の言語によるセリフ,手紙や日記体のナレーション,ラジオ放送の音声など,豊かな手法で物語が語られている。そしてこのすべて言語にかかわる手法は視覚による文字と聴覚による音声に分けることができ,映画のなかの文字と音声の言語はそれぞれ対称的に配置され,その機能と効果を果たし,物語内容を語っている。さらにこれらの言語は,物語とともに,台湾という空間における一時の歴史的時間をも語っていることが分かる。そして,この映画のその視覚的な文字と聴覚的な音声に着目し,それらを分析・考察して浮かび上がってくるのは,情報伝達における音声言語の未全であり,一方での文字言語の十全である。映画をみるに当たって,私たちは音声で映像を補うよりは字幕を頼りにする。音声情報に十分な注意を払わずに,視覚情報に重きを置く。これはやはり,映画における音声の映像への従属を示すのだろうか。しかし,『悲情城市』では聞こえる音声が情報伝達の未全を示す一方,聞こえない音声である「沈黙」がそれを補うように伝達の十全を表わしている。音声には多くの情報が隠されており,文字は映像に組み込まれることで,映像の力に勝るとも劣らない機能を発揮する。つまりそれは,音声と映像の豊かな統合であり,そこに映画の構造における映像と音声というものを考察する一つの機会ととらえることができる。この作品では,視覚の文字,聴覚の音声が映画の構造のなかでそれぞれ対等の機能と効果を果たし,映画のなかの物語と映画の背景と,そして媒体としての映画そのものを作り上げているのである。
著者
張 集歓
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
北海道大学大学院文学研究科研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
no.15, pp.19-34, 2015

本稿は,1930年代の中国華南地域において活動していた南京中央政府に対抗する政治派閥の西南派の政治姿勢を,対中央攻撃期,模索期,接近期の三つの異なる対立関係期に照合しながら,当該時期の地方政治人物及び中国政治の特質に対する検討を試みたものである。西南派の活動の軸となるものは,彼らがずっと掲げてきた「反日」「倒蒋」および「剿共」の三つの並行の政治主張であったが,政治主張は常に眼前の政治情勢に対応できるよう,シフトを繰り返されていた。対抗期の初期から中期において,彼らにとって蒋介石の南京中央政府の威圧こそが最大の敵であり,焦眉の急であったため,「抗日」の姿勢も,「抗日をしない」南京中央政府への攻撃の側面を持つことになる。その一例として,胡漢民に代表された西南派の日本の侵略に対する認識は,蒋介石と同等のものであり,同時代の中でも相当冷静で鋭い判断を下されていたのにもかかわらず,南京中央政府への対抗の基盤を強化するため,短い期間ではあったが,接近してきた日本側との「提携」が企図されていたことも確認できた。このように,当時の西南派及び西南政権は,必要となれば脅威の順位が下位にある敵とのある程度の「提携」も辞さない境地に置かれていたことの裏づけと言える。また,国内においては,西南派は初期から華北の軍事指導者らと連絡を取り合い,「華北の改造」を通じて反蒋運動を推し進めていた。同様の意図に基づいて,彼らは十九路軍が上海戦から撤退して福建に進駐すると,広東という人と地域のネットワークを駆使し,最大の反蒋連盟ともなり得る西南大連合の結成を推し進めていたが,同盟相手の福建の急進及び共産党提携に失望した彼らに,切り崩しを図る蒋介石は接近したのである。そして,数度にわたる蒋介石の譲歩と接近に対して,西南派は徐々に対抗姿勢は軟化していく。言い換えれば,彼らは,それまで情勢に応じて自らの政治主張をシフトさせてきたが,向かう方向は常に一定していた。それは,つまり中央政権への返り咲くことであった。