著者
伊狩 裕
出版者
同志社大学
雑誌
萌芽研究
巻号頁・発行日
2003

数世紀にわたって国家を持つことのできなかったウクライナ人は、18世紀末のポーランド分割以降は、ハプスブルク帝国、ロシア帝国に分断され、それぞれの地域において、支配者の側から、「ルテニア人」、「小ロシア人」と呼ばれ、被抑圧者の立場におかれ、自らのアイデンティティを主張することも困難であった。19世紀を通じて、西欧諸国においても、ウクライナ民族の認知度は低かったのであるが、ガリツィア出身のユダヤ系ドイツ語作家カール・エーミール・フランツォースは、19世紀の後半、先駆的にウクライナの民族文化を高く評価し、ウクライナの民謡、文学を西側に向けて紹介している。しかし、20世紀を通じてもウクライナの民族と文化に対する西側の関心は低く、そのため、ウクライナ民族の歴史と文学とを紹介した『小ロシア人の文学』、今日でもウクライナの国民的詩人であるシェフチェンコについての評伝『タラース・シェフチェンコ』といったフランツォースの著作も、ウクライナ民族と運命をともにし、今日まで評価されることはなく、フランツォースは、もっぱら、東方ユダヤ人の世界を描いたゲットー作家とみなされている。今年度の研究においては、フランツォースの「ウクライナ」をとりあげ、ユダヤ系ゲットー作家という従来のフランツォース像を正すと同時に、ユダヤ人によるウクライナ文化のドイツ語圏への紹介という多文化間の交渉が、19世紀ガリツィアという空間を俟って初めて可能であったということを明らかにした。
著者
伊狩 裕
出版者
同志社大学
雑誌
萌芽的研究
巻号頁・発行日
1999

今年度も、昨年度に引き続き、ガリツィアに生まれた同化ユダヤ人作家カール、エーミール、フランツォース(Karl Emil Franzos 1848-1904)を対象としたが、今年度は特に19世紀後半のドイツの法学者イェーリング(Rudolf von Jhering 1818-1892)とフランツォースとの関わりを、論文「権利のための闘争カール、エーミール、フランツォース試論(2)」において明らかにすることができた。フランツォースは、1867年ウィーン大学に入学し法律学を専攻するが、その翌年、ギーセンのローマ法教授イェーリングが、オーストリア帝国法務大臣アントン・ヒュエによって招聘されウィーンへやって来る。19世紀後半のドイツにおける法思想の主流はサヴィニーの歴史法学であったが、イェーリングはそれに対して異を唱えた人物であった。すなわち、サヴィニーの歴史法学が民族性に法の根拠を見出していたのに対してイェーリングは、ローマ法の研究を通じて普遍性に法の根拠を見定めていたのであった。同化ユダヤ人として幼い頃から啓蒙主義の中で育てられてきたフランツォースがイェーリングに傾倒していったのは当然の成り行きであった。1872年3月イェーリングはウィーンの法律家協会における講演「権利のための闘争」を置き土産にゲッティンゲンへ去る。方フランツォースは同じ年、あれほど心酔し、生涯を捧げる決意していた法学を断念し大学を去り、作家活動に入ってゆく。フランツォースが法学を断念したのは、彼がユダヤ人であったことと、おまけにブルシェンシャフトでの活動が公職に就くことが困難としたからであった。この年の秋イェーリングの講演は『権利のための闘争』として刊行され、この書によってフランツォースは「権利/法の神聖」を強く確信し、10年後、小説『権利のための闘争』(1882年)を書かせるきっかけとなったのであった。
著者
伊狩 裕
出版者
同志社大学
雑誌
言語文化 (ISSN:13441418)
巻号頁・発行日
vol.9, no.1, pp.1-47, 2006-08

カール・エーミール・フランツォース(1848-1904)は、今日ではもっぱら、東方ユダヤ人の世界を描いた、いわゆる「ゲットー作家」としてのみ知られ、『小ロシア人の文学』、『タラース・シェフチェンコ』等によって、ウクライナ人の文化、特にその文学を、当時、ドイツ語圏にむけて精力的に紹介していたことは知られていない。本稿では、ウクライナ民族の歴史と文学に対するフランツォースの深い理解と関心とを示すものとして、『小ロシア人の文学』、『タラース・シェフチェンコ』、そしてまた、フランツォース自身によるシェフチェンコの詩のドイツ語への翻訳を取りあげ、従来、もっぱら「ユダヤ」によってのみ論じられることの多かったフランツォース像を補正し、フランツォースの全体像を明らかにする。同時に、「フランツォースのウクライナ」は、「ユダヤ」による、「スラヴ」の「ゲルマン」への仲介であったが、それを初めて可能としたものとして、ガリツィアという空間の特質を取りあげる。Karl Emil Franzos (1848-1904), geboren in einer assimilierten jüdischen Familie in Galizien, ist heute nur als ein Schriftsteller vom jüdischen Ghetto in Galizien bekannt. Er war jedoch auch einer der wenigen Deutschen, der sich damals für die ukrainische Kultur interessierte, und schätzte insbesondere ihre Volkslieder und Literatur hoch. Dies lag u.a. daran, dass die ukrainische Sprache seine erste Sprache war und ihm die ukrainische Kultur von Kind auf sehr vertraut war. Eine Untersuchung der "Ukraine von Franzos" ist nicht nur für seine ganzheitliche Würdingung notwendig, sie bietet auch einen Zugang zum Verständnis der Spezifität Galiziens im 19. Jahrhundert. Franzos behandelte die ukrainische Literatur in "Die Literatur der Kleinrussen" und "Taras Szewczenko". Beide sind in der Sammlung "Vom Don zur Donau"(1889) enthalten. Im ersten Werk behandelte Franzos vor dem geschichtlichen Hintergrund der Ukrainer und ihres unglücklichen Schicksals die ukrainische Literatur vom 11. Jahrhundert bis in die 1880er Jahre. Im zweiten konzentrierte sich Franzos auf eine einzige Person, den Dichter Taras Szewczenko (1814-1861, auf Deutsch: Schewtchenko), und beschrieb, wie sich in ihm das ganze nationale Schicksal der Ukraine spiegelt. Die beiden Werke ergänzen sich also gegenseitig.5 Jahre nach dem "Taras Szevczenko" übersetzte Franzos ein Gedichte von Szewczenko, in dem dieser kurz vor seinem Tod seine Enttäuschung und Hoffnungslosigkeit ausdrückt. Szewczenko hatte in jüngerern Jahren auch zahlreiche provokative und hoffnungsvollere Gedichte verfasst. Dass Franzos gerade dieses Gedicht auswählte, übersetzte und mit dem Titel "Erwarte nichts!" versah, zeigt, wie sehr Franzos seine eigenen Gefühle darin gespiegelt sah.