- 著者
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元好 朗子
- 出版者
- 日本中東学会
- 雑誌
- 日本中東学会年報 (ISSN:09137858)
- 巻号頁・発行日
- no.14, pp.85-120, 1999-03-31
この研究の目的はアッバース朝時代の詩人、アブー・ヌワース(AD762-815)とアルブフトリー(AD821-897)のカシーダの中にみられるワインと絵画描写モチーフを比較分析することである。アブー・ヌワースは狩猟の様子が描かれたワイン・カップを詩の中に描写し、アルブフトリーはイーワーン・キスラーの壁画の描写をおこなっている。はじめに、ワイン・モチーフを含んだ絵画的テーマとワスフ(描写)またはエクフラシス(絵画の描写、厳密には非言語記号システムによって作成されたテクストの言語化)の役割を「幻想」と「現実」という概念に照らし合わせて、心理的、理論的に考察する。さらに、そのワスフがカシーダの伝統的三部構造:ナシーブ、ラヒール、マディーフの枠組みにおいてどのような作用を果たしているかを調査する。理論的方法論としては、絵画的テーマの機能を明らかにするために、Murray KriegerとAndrew Beckerのエクフラシスについての研究を用いる。さらに全体構造を分析するためにDavid Quintの著作Epic and EmpireとGian Biagio ConteのThe Rhetoric of Imitationを主に参考にする。ワスフの働きは中世アラブ注釈者がいうような、単なる詩的対象の描写だけではない。またカシーダは、古いオリエンタリストたちが主唱してきたように、断片的でも客観的でもない。その具体的、物質的描写を用い、カシーダは形而上的・抽象的なものをも表現しようとしている。その意味で、この二つの詩は大変比喩的であるといえる。なぜなら、二詩にみられるエクフラシス(絵画の描写)は実はマディーフ(称賛)の役割を比喩的に果たしているからである。また、二人の詩人はエクフラシス的テクニックを用いることにより、聴く者に、幻想と現実の世界を行き来させている。さらに三部構造からみた際の現実と幻想の概念の問題は、詩人達の政治的意図とも密接な関係がある。伝統的カシーダは普通、詩人の実際の政治的立場をその構造において反映させる。両詩人とも実際はアッバース朝を称賛しなければならないのに、過去のもう存在しないササン朝を称賛している。このことは遠回しにアッバース朝への風刺を表わしているともいえる。これらの調査により、カシーダの構造およびテーマにおける伝統的慣習を知ることなしには、カシーダを正しく理解することは大変難しいという結論が導き出された。また、エクフラシスの西洋理論とインター・アートの理論を用いた分析は、二詩人の意図を明らかにさせ、カシーダ詩学に新しいパースペクティブを与えてくれたといえるであろう。