著者
八杉 龍一
出版者
科学基礎論学会
雑誌
科学基礎論研究 (ISSN:00227668)
巻号頁・発行日
vol.18, no.4, pp.159-165, 1988-03-25 (Released:2009-07-23)
参考文献数
15

最初にのべたことにも含まれるように, 進化に関連する生物学の領域は多くかつ広く, それぞれの領域での問題をあげていけば, きりがない。だがわれわれの世界観の中で大きく進化の全体像がどう見えるかといえば, それは以上の記述からすでに浮かんできていると, いえるであろう。自動制御システムすなわち自律性をそなえた存在の地上での成り立ち, その存在の階層構造への分化と各レベルの自律性の保持, また諸レベルの自律性を中心としたレベル間のフィードバックのしくみがどう発展してきたかが, 進化像としてまず注目されることである。そしてその実際の機構の解明において, 下位レベルへの可能なかぎりの還元が試ろみられるべきであることも, さきにのべた。このような進化での適応の成り立ちといった問題には, もはや立ち返る餘裕はない。ただ, 偶然の進化的役割, それの世界観的意義のさらに進んだ考察が, 問題として残されるべきであることを, いっておきたい。進化あるいはそれと比較される観念の古代文明での発生 (ギリシア, ヒンズー, 中国) を顧ると, いずれも人間の問題が中心課題として現われていることが知られる。人間はいかにして生じ, したがっていかなる本性をもつものかということである。その課題は, われわれにおいて一層重大なものになっているといえる。それにかんする私の若干の意見は, 本誌での前論文の内容になっているので, 本稿では反復しなかった。端的にいえば, 人間の発生は (テイヤール・ド・シャルダン的表現ということになるかもしれないが) この世界を'視る'主体が成り立ったという意味をもつ。このことは人間の本質という問題であるだけでなく, この世界の目的論的見方という問題にもかかわりをもってくると思われる。目的論と機械論の対立を解いていくために, それは1つの方向づけを与えるものとはなりえないだろうか。進化論の議論は, つねにダーウィンから出発する。この稿でもそうであった。では, そのダーウィンはどこにいってしまったのかが, 改めて問われる。いろいろの新しい学説や観念がダーウィンを痛撃するものになっていることを, 初めのほうでのべた。しかしそれから後の記述で見られたように, ダーウィンの選択や適応の概念は, そのままではないがなお生きており, 新たな学説に動機を与えてもいる。世界観や人間観にかんしても, 同様のことがいえるであろう。ダーウィンの現代的意義を, そこに認めることができると思う。
著者
八杉 龍一
出版者
科学基礎論学会
雑誌
科学基礎論研究 (ISSN:00227668)
巻号頁・発行日
vol.9, no.2, pp.75-81, 1969-03-30 (Released:2009-09-04)
参考文献数
19

生物進化の要因の問題を考えるにあたって中心になっているのは, 集団遺伝学的研究の成果である。そして集団遺伝学にかんして一般的にもたれているのは, この科学がCh. Darwinいらいの自然選択説の諸概念を前提とするものである, あるいは少なくともそれを強固に基礎づけるものになっているという観念である。だが他方自然選択説にふくまれる論理的矛盾の指摘も多く提出されてきており, またことに高次の分類階級群の進化の問題では研究者のあいだにしばしばかなり大きな立場の差異がみられる。本稿では, まず自然選択説にたいするいろいろの批判について考察し, ついで進化の諸様相にもとついてたてられた他の諸学説を方法論的な面から検討し, 最後に進化学における仮説がどうあるべきかについて若干の議論をすることにしたい。