著者
出原 隆俊
出版者
大阪大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2005

明治20年代半ばに、大阪を拠点とする雑誌『葦分船』と『大阪文芸』が、別々にではあるが、森鴎外と論争をしている。これは鴎外が石橋忍月や斎藤緑雨と論争していることに絡んでである。それに対して『早稲田文学』などもからかい気味に発言している。緑雨も『葦分船』との間でやり取りを交わしている。関西対東京という構図が出来そうなのであるが、『葦分船』と『大阪文芸』の間にも鴎外との場合と同じような、いささか口汚い論争が起きているのである。この時期には〈地方文学〉という表現が見られるようになり、中央来壇からは関西もその一つの対象であるが、その関西からも東京以外の地域に対して〈地方文学〉という視点で関心を払っていることが確認される。『大阪文芸新聞』第二号(明治三十一年五月十七日)で、木崎好尚は『国民之友』一号の好尚の「時文一家言」を取り上げて、「文学の東都にのみ集中せるを叙して所謂上方文壇を鼓吹せり」と記したことについて、「一大感謝の意を表」している。しかし、二面には菊池幽芳の「大阪文壇管見(二)」が、「大阪文壇は何故に進歩せざるか」・「大阪文壇に評論なし」・「何ぞ競争なからん 何ぞ刺戟なからん」という小見出しが、その内容を示している。これは、一面トップの藤田天放「大作催促の声」が、大阪に特定するのではなく「久いかな、小説界に大作を催促の声の喧きことや今の世に新作の小説とし云へば、端物に限り、短篇に止まるが如き、」と指摘するのと重ねて考察することが出来よう。『みをつくし』第九号(明治三十二年九月十目)の巻頭に「歴史的観念を論じて大阪の文学に及ぶ」にも同様の趣旨の発言がある。明治20年代半ばの関西文壇を興隆させようという動きが停滞しているとの苦い認識がある。しかも、それは中央の文壇の状況とも無縁の物ではなかった。関西文壇という視点は中央文壇を相対化するのに有効であると確認できる。