著者
加澤 昌人
出版者
佛教大学
雑誌
佛教大學大學院紀要 (ISSN:13442422)
巻号頁・発行日
vol.36, pp.65-81, 2008-03-01

本論では、従来研究対象とされてきた文書や記録、あるいはこれまで取り上げられなかった廟堂祭祀に関する記録を、宗教的な視点から見直すことによって新たな謙信像を考察した。謙信は書状や願文において、「筋目」を強調する。まず従来研究の対象とされてきた文書や記録を視点を変えて考察し、謙信の戦の「筋目」とは、王法と仏法の回復という信念であることを読み解くことができた。次に、高野山の無量光院清胤との関係と謙信の信仰を、清胤の書状と高野山からの返書三通及び関係文書を、初めて関連づけて考察することによって、伝法灌頂まで遂げた謙信の法体の実態を浮き彫りにした。さらに、景勝による米沢城本丸への謙信廟建立の過程と、藩政期における廟堂祭祀の一端を論じた。ここでは祭祀にあたる寺院の記録等により廟堂における勤行と信仰及び藩主初入部の際に謙信廟で行われる?御武具召初?から、他藩に類例のない祭祀の特色を明らかにした。
著者
加澤 昌人
出版者
佛教大学大学院
雑誌
佛教大学大学院紀要. 文学研究科篇 (ISSN:18833985)
巻号頁・発行日
no.48, pp.93-110, 2020-03-01

米沢城本丸の上杉謙信を祀る御堂(みどう)は、藩政期をとおし藩の安泰を祈る場として崇敬された。明治時代になりその祭祀は仏式から神祭へと転換する。そして旧藩士の発願によりすべて民費によって上杉神社が建立される。明治維新後、職を求めるなどして米沢を離れた旧藩士は少なくない。本論では、彼らの新天地におけるこの神社に対する崇敬のかたちを、『米澤有爲會雑誌』の記事を中心にとらえていく。ひとつは屯田兵として北海道厚岸郡太田村に渡った人々による上杉神社の遥拝式と神社の建立、もうひとつは全国各地の米澤有爲會支部が上杉神社の祭典に合わせて行った遥拝式から明らかにしていく。そこには具体的にその崇敬のかたちが表現されている。米沢の上杉神社の建立に関わった後に米沢を離れた彼らが、遠隔の地に神社を建立し、あるいは遥拝した米沢の上杉神社への思いは、単なる望郷の念ではなかった。彼らの先祖代々から精神的な支えとして受け継がれてきた、謙信の義勇と鷹山の民政に対する強い崇敬の念によるものであった。上杉謙信上杉鷹山上杉神社太田村屯田兵米澤有爲會
著者
加澤 昌人
出版者
佛教大学
雑誌
佛教大学大学院紀要. 文学研究科篇 (ISSN:18833985)
巻号頁・発行日
vol.42, pp.69-85, 2014-03-01

本論では、米沢藩二代藩主上杉定勝を生涯にわたって支えた直江兼続の妻おせん(後室=上杉家の呼称)の人物像を『上杉家御年譜』を中心にして論じ、次の点を明らかにした。兼続の死後も後室のために直江家は藩によって維持され、後室は、定勝に対し助言を行い、藩の上級役人を自由に動かせる立場にあること、藩主の婚家である大名家と応対ができ、幕府の証人にもなるという、大きな力を持ち特別な立場にある姿を明らかにした。また、後室の前夫直江信綱出自の総社長尾家の再興と、後室を上杉家の一員として高野山において供養するという点から、定勝の後室に対する生前と死後の孝行について明らかにし、後室が定勝の母としての立場を持つことも指摘した。さらに、直江家関係の文書が上杉家文書に多数含まれることと、その保存状況から、これらの文書は後室から定勝へ継承されたもので、ここでも両者の密接な関係を指摘した。