著者
北沢 正清 野中 俊宏 江角 晋一
出版者
一般社団法人 日本物理学会
雑誌
日本物理学会誌 (ISSN:00290181)
巻号頁・発行日
vol.76, no.8, pp.507-516, 2021-08-05 (Released:2021-08-05)
参考文献数
52

現在,およそ1015 g /cm3という超高密度で実現するとされる相転移の実験的探索が世界各地の実験施設で行われているのをご存じだろうか.この相転移とは,強い相互作用の基礎理論である量子色力学(QCD)が低温かつ超高密度の物質中で引き起こす一次相転移と,その一次相転移線の端点であるQCD臨界点のことである.1015 g /cm3という密度は,原子核の飽和密度ρ0≃2.5×1014 g /cm3を大きく上回り,現在の宇宙における最高密度状態の中性子星中心部に匹敵する.この相転移を,加速した重い原子核を衝突させる実験である高エネルギー重イオン衝突によって地上で実現し,その性質を調べるための実験が進められているのである.高エネルギー重イオン衝突実験では,原子核の圧縮によって衝突時に高温高密度の物質が作られるが,衝突エネルギーを変化させることによって生成物質の温度と密度を変化させることができるという特徴がある.この性質を使い,生成物質の温度・密度依存性を調べる一連の実験をビームエネルギー走査とよび,現在世界各地の加速器でこのような実験が進行している.特に米国の加速器RHICでは幅広いエネルギー領域を調べる実験プログラムRHIC-BESが進行中であり,ドイツGSIのHADES実験などでも低エネルギー領域が調べられている.さらに,GSIのFAIRやロシアJINRのNICAなどの次世代実験施設の建設も進む.これら一連の実験が目指す最重要課題が,ビームエネルギー走査による高密度領域の相構造探索である.これら一連の研究の中でも近年特に精力的に調べられてきたのが,非ガウスゆらぎを使ったQCD臨界点の実験的探索である.ゆらぎはキュムラントとよばれる量で特徴づけられるが,QCD臨界点でゆらぎが発散するのに伴い,QCD臨界点周辺では各次数のキュムラントに特徴的な発散や符号変化などの異常が現れることが理論的に指摘されている.一方,重イオン衝突実験では,衝突事象毎解析とよばれる手法で保存電荷数などの観測量のゆらぎが測定でき,109をも凌ぐ膨大な衝突事象の解析によって現在最高で6次までキュムラントが解析されている.こうして得られた最新の実験結果では,4次キュムラントの衝突エネルギー依存性に非単調な振る舞いが現れており,QCD臨界点の兆候が見えたのではないかと注目されている.水の液気相転移の臨界点から15桁隔てた密度に存在する臨界点の発見に至れば極めて興味深く重大な発見である.現状では実験データの誤差が大きく,また理論的検討も未成熟であるためQCD臨界点の存在同定にはさらなる検討が必要だが,現在RHICではRHIC-BESの第二期実験が進行中であり,この実験が間もなく提供する高統計データによって,近い将来この議論に決着がつくことが期待されている.