著者
古関 大樹
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.100328, 2015 (Released:2015-04-13)

発表の目的本稿が対象とするマンボとは、木材や石材などで天井や壁を覆わない、素掘りの地下水路を指す呼称である。その独特な名称の起源には諸説あるが、中世の鉱山用語で坑道を指す「まぶ(間歩・間風)」が転訛したというのが有力視されており、戦国時代末から江戸時代初期にかけて著しく発達した鉱山技術が、新田開発や乏水地域の用水確保に応用されたと考えられてきた。全国的には、鈴鹿山脈東麓(三重県北部)や垂水盆地(岐阜県西南部)などで発達していたことが知られている。マンボの研究を深めた小堀巌編『マンボー日本のカナートー』(三重県郷土資料刊行会1988)の副題にみえるように、日本のマンボは縦坑を備えた事例が中心に報告されてきた。その独特な形態や、大規模なものになると数100m以上の長さを持つことから、掘削方法や地域文化財、ほかの灌漑方法との比較や地域開発との関わりなどに関心が集まってきた。これに対して本発表が対象とするマンボは、河岸段丘の段丘崖に沿って掘削され、竪坑ではなく横坑を備えた事例である。また、従来は、稲作が困難な地域でマンボが普及した様子が伝えられてきたが、ここでは河川環境の変化に注目して考察を進めたい。地域の概要本発表が対象とする佐久良川は、滋賀県湖東地域の主要河川である日野川の支流である。その上流域は、鈴鹿山脈西麓の丘陵地帯の谷水を集めており、谷間の耕地を基盤とする農村景観が展開している。 圃場整備が行われるまでは、丘陵の枝谷に構えた溜池と河川灌漑が中心を担ってきた。しかし、河川と耕地が展開する段丘面の高低差は少なくなく、深い所になると10m以上の切り立った段丘崖が形成されている。本来であれば、佐久良川からの取水が非常に困難な地域であるが、ここでは井堰のすぐ近くの段丘崖にマンボを通し、段丘上に灌漑用水を導いている。河川環境の変化とマンボの導入 古文書や古地図、聞き取り調査などから約15本の水路でマンボが導入されていたことが分かった。この中には、現在も活用されているものもある。明治の地籍図から起こした復原図と比較すると、これが導入された水路は、地域の中核的な水路である場合が多い。地元の伝承によると、江戸時代後半~近代にかけて導入が進んだという。資料が良好に残る事例では、マンボが導入される数年前に大洪水が発生し、深刻な渇水に見舞われたことが契機となったようである。マンボの掘削と並行して、井堰の位置が大きく上流に移されているが、「井堰が川底ごと流失」したという資料があり、河床の低下が問題視されたのだと考えられる。既存の耕地を維持するためには、従来よりもさらに高い位置に井堰を置く必要があり、そのために横穴を備えた段丘崖を通るマンボが開削されたのだと考えられる。隣村との対応を含めて考察したい。