著者
吉馴 明子
出版者
明治学院大学キリスト教研究所
雑誌
明治学院大学キリスト教研究所紀要 (ISSN:09103082)
巻号頁・発行日
no.48, pp.309-335, 2016-02

【論文/Articles】
著者
吉馴 明子
出版者
国際基督教大学キリスト教と文化研究所
雑誌
人文科学研究 : キリスト教と文化 : Christianity and culture (ISSN:00733938)
巻号頁・発行日
no.48, pp.139-167, 2016-12

昨年筆者は、日清戦争論を「義戦論」の変容を追う形でまとめたが、今回は日露戦争論について植村正久の非「非戦論」の内容を検証する形でまとめることにした。当時の新聞紙上で日露開戦を巡って、非戦論と主戦論が競うように発表され、キリスト教世界でも、内村鑑三の「非戦論」が出ると同時に、海老名弾正のように日本の帝国膨張をキリスト教的博愛の精神を以て弁証する「聖戦論」的な主張が広まった。このような状況であればこそ、現代の研究者は日露戦争論を「非戦論」と「主戦論」として概括したと考えられる。植村もしばしば主戦論者といわれてきたが、本稿では『福音新報』の記事によって、彼が「非戦」論を非として、国際関係どう捉えたか、戦争、文明、国家をどう捉え、これらをキリスト信仰においてどのように統括的に考えようとしたかを追究してみた。 日清、日露の戦間期に、イエスの十字架に「正義は敗れて興り、不義は勝ちて滅ぶ」とのメッセージを受け取った内村鑑三は、米西戦争とボーア戦争を人類の救済という観点から捉え、ボーアにこそ「贖罪史」の本質が現れていると考えた。ここから日露戦争を見て彼は「非戦論」を説くようになった。 植村正久の場合は、ボーアの抵抗に「自由」実現への希求を見るとともに、国際関係は軍事力・経済力が物をいうとの認識を持った。日露開戦期のアジア情勢についても、ロシア、中国、日本の力関係をリアルに見ている。その意味で日露開戦は不可避とし、国家の一員として戦争に参加すべしと「非戦論」はとらない。しかし、彼の願いは、戦争が人間の自立の促進や社会革新を進めることに役立つことにある。ここに、植村特有の日露戦争論が生み出される。 彼は、白色対黄色、ヨーロッパ対アジア、キリスト教対異教といった対立軸を以ての日本を攻撃する「黄禍論」に批判を加えていくうちに、大きく東洋主義のリストを作り上げた。帝王の威力重きに過ぐる。君主専制。人格の観念薄く、其の価値軽き。神てふ観念低く、人類を礼拝する。夫婦の道明かならず、妻妾を擁して愧づることを知らざる。命の意義に深く通ぜず、自殺を罪悪と見做すこと能はざる、といった諸点である。これを矯正するのは、「開国の精神を振起」することによる。それは、「維新の改革」において「士の常職を解いて四民同等の制を定め」たことから始まり、個人主義の確立、立憲自治の種子となった「精神」である。従って、「自由立憲の制度を樹立し、平民主義を拡張」するなど、「西欧文明の真髄と同化し、深く基督教の精神を吸収して、世界に特色ある文明を現出」することが、日本の使命とされる。 今ひとつ、植村はこの四民同等の導入を、ナポレオン三世率いるフランスがプロシアに敗れそうになった時に、フランス国民が共和政治を組織して、「国民一団となって国家と共に亡びんとする」愛国精神に範を取って考えている点に着目したい。ここに立憲政体は「国は民の為に存し民は国の為に存する」という精神に基づいて理解されることになった。単に忠愛の心厚き」によるのではない。それゆえ、一方で「自由を重んじ、権利を尊ぶ」ことを「国民国家」の必須要件とするとともに、兵役に従事し、国家を守る実力を保持することをも「国民国家」の要件とされることになった。 ここに、植村は「国家権力」についてのキリスト教による説明を余儀なくされる。彼も他のキリスト者と同じように、「基督の平和は血の流れる十字架上の平和である」という。ただ、彼が強調するのは、キリストが「十字架に血を流すまで戦ひて罪悪を征服し」「世に勝ちぬ」と勝鬨を挙げられた、ということである。対外戦争を罪悪の征服と等値して語ることができるのかは、大きな問題であろう。ただ、戦死をキリストが罪を贖うための「犠牲」死と等値したのではないことには注意を払っておきたい。 植村がかつて、福沢諭吉の「報国心」に潜む不公平を責めたこと、法然の専修念仏の教えに支えられて勇ましく戦った武士がいたと述べていたことを頭において、植村にとっての「愛国」とはいかなるものであったか、国家権力と主権的個人との関係如何について考えたい。また、これらの課題との関連で植村が尊重した「武士道」がどのようなものであったかをも、次の論考の課題としたい。
著者
吉馴 明子
出版者
国際基督教大学キリスト教と文化研究所
雑誌
人文科学研究 (キリスト教と文化) = Humanities: Christianity and Culture (ISSN:00733938)
巻号頁・発行日
no.45, pp.105-135, 2014-03-31

本稿執筆には、二つの目的がある。第一は、古典文学に続いて植村正久が宗教思想、特に仏教をキリスト教との関わりでどのように理解しているかを明らかにすることである。 第二は、そのような「仏教・仏教者」に関する理解が、時代状況とどのような呼応関係にあるかを知ることである。この二側面を知ることを通して、我々キリスト者が負わねばならない社会的責任についても考えたい。 第一章では、教育勅語発布後の文化面での「国粋主義」に加えて、日清戦争期の国家主義の台頭を背景に描かれた「日蓮論」を紹介する。植村の日蓮論と、同年に書かれた内村鑑三の日蓮論との共通点は、世の如何なる権威にも服する事なく、自分の信心を貫く姿である。植村はそれを「剛愎」といい、内村は「狂気」というが、「鎮護国家」の面を強調する仏教者とは、二人共対照的な姿勢を示している。 第二章では1911 年に書かれた植村正久の「黒谷の上人」を紹介する。法然は彼がもっとも好んだ仏教者だったといわれる。その理由の一つは、法然の求道の姿にあった。夜襲によって逝った父から仇討ちを禁じられ、武士として生きる意味を喪った法然が、人としてひたすら「解脱」を求める。それは、植村がキリスト教に求めたものであり、植村の宗教観にも合致した。 もう一つの理由は、法然の教える「一心専念弥陀の名号」にある。すなわち「弥陀が願行を遂げ……その功を」凡夫に譲ってくれるという教えが、まさにキリストの贖罪による救いに通じているからである。無論、仏教の教えは非人格的で不十分とはいうが、法然の教えに、植村はキリスト教の贖罪信仰と「信仰義認」を見出した。 同じ頃、社会主義者として活動を続け、オーソドクスなキリスト教に批判的であった木下尚江が、「日蓮論」と翌年「法然・親鸞論」を著した。木下は、「立正安国論」を著し、時の執権や比叡山の僧たちと激しく対立した最盛期の日蓮ではなく、身延入山後の「法華経の行者」日蓮に着目した。そして「南無妙法蓮華経」でも「南無阿弥陀仏」でも、「ただひたすら唱えよ」に日蓮の教えの眼目を認める。植村も「よし殺さるゝまでも念仏申さにゃならねば」という法然に「仏教者の自由」を認めた。 彼らは、社会主義のみならず、思想言論の自由を圧迫して「教権」的絶対性を強める天皇制に抗して、人々が日本社会にあって自らの足で歩み続け得る「自由と革新」の素地を法然と「法華経の行者」日蓮の中に見出したのであった。この地で新しい力を蓄えて、彼ら、そして我らは、いかにして周囲にめぐらされた壁を破ることができるのか、これがまた一仕事である。