- 著者
-
宇賀神 知紀
西岡 辰磨
- 出版者
- 一般社団法人 日本物理学会
- 雑誌
- 日本物理学会誌 (ISSN:00290181)
- 巻号頁・発行日
- vol.76, no.7, pp.435-443, 2021-07-05 (Released:2021-07-05)
- 参考文献数
- 46
量子情報理論は,量子エンタングルメントという古典論には現れない量子論の非局所性を特徴付ける重要な概念を,情報量として定量化してその性質を研究する学問である.量子情報理論はその名が示すとおり量子物理学と情報理論の交差点であり,両分野のアイデアを取り込みながら急速に発展している.一方で近年は量子情報理論で培われた概念や手法を,素粒子論,物性論,一般相対論などの基礎物理学に応用するという新しいアプローチが登場し,目覚ましい成果を上げている.場の量子論への量子情報理論的なアプローチにおいて,これまでは1つの量子状態の量子情報量を測るエンタングルメント・エントロピーの研究が中心であったが,最近は相対エントロピーとよばれる2つの量子状態の間の差を測る量子情報量の重要性が徐々に認識されるようになってきた.相対エントロピーは常に非負であり,また2つの量子状態が等しい場合にのみゼロとなることから,与えられた量子状態の空間上の「距離」のような役割を果たす.相対エントロピーは非負値性に加えてあるクラスの量子操作の下で単調性を示すなどのよい性質をもっている.これらの一般的な性質は,場の量子論を含む量子多体系に適用したとき,そのダイナミクスに強い制限を与えることが最近の研究でわかってきた.例えば2つの量子状態を上手く選ぶことで,相対エントロピーの「非負値性」から熱力学第二法則を導出することができる.同様の手法を用いると,ある空間領域の中に詰め込むことができる物質場のもつ(エンタングルメント)エントロピーに上限(Bekenstein限界)を与えることができる.相対エントロピーのもう1つの重要な性質である「単調性」もまた場の量子論に適用した際に,平均化されたヌル・エネルギー条件や,C-定理などの著しい結果を導く.一般に,場の量子論では局所的なエネルギー密度は正とは限らない.しかし平均化されたヌル・エネルギー条件は,エネルギー密度をある空間領域にわたって積分したものが正であることを主張する.またC-定理は粗視化の下で理論の変化を記述するくりこみ群のフローに対して強い制限を与える.ほかにも量子重力理論におけるホログラフィー原理や,時間に依存する系への相対エントロピーの応用も盛んに議論されている.AdS/CFT対応は反de Sitter時空(AdS)上の重力理論と,その境界上に住んでいる(重力を含まない)共形場理論(CFT)が等価になることを主張する.どのようにCFTから重力理論が創発されるのかは不明であったが,共形場理論における相対エントロピーを使うとAdS時空上の重力のダイナミクスを読み取れることがわかりつつある.またスクランブリングとよばれる,熱平衡状態における量子情報の急速な脱局所化現象が,ブラックホールの情報喪失問題や非平衡系において本質的な役割を果たすが,この現象を検出する手段としての有用性も指摘されている.