- 著者
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小野寺 淳
杉本 史子
西谷地 晴美
宇野 日出生
宇野 日出男
- 出版者
- 茨城大学
- 雑誌
- 基盤研究(C)
- 巻号頁・発行日
- 2003
比叡山西麓に位置する京都府左京区八瀬は八瀬童子会という組織をもつ。八瀬童子は天皇から特権を与えられ,明治・大正・昭和の三天皇の大喪にかかわった。皇室と比叡山との関係の中で八瀬童子の人々は独特な空間認識と歴史意識を育んだ。本研究は絵図,古文書,聞き取りから八瀬童子の空間認識と歴史意識を明らかにした。八瀬童子の空間認識は18世紀初頭に起こった比叡山延暦寺との境界争いで顕在化する。裁許の結果,比叡山と八瀬の境界が「老中連署山門結界絵図」に描かれた。地形図,空中写真などにより絵図に描かれた境界線や事物の位置を推定,現地で確認調査を行った。また絵図のデジタル画像を作成,5点の絵図の違いを明確にした。この結果,八瀬と比叡山の境界は現在の琵琶湖国定公園の西端,すなわち元禄国絵図における山城国と近江国の国境と一致した。この争論が発生した原因は八瀬や大原の集落で行われていた柴の採取にある。八瀬の人々は比叡山の聖域を越えて柴の採取を行い,京の市中で柴を売り歩いた。この日常的な経済行為が比叡山との境界争いを生んだ。しかしこの争論は天皇から特権を与えられた八瀬童子に有利な裁決が下された。これに感謝して始まったとされる「赦免地踊り」は実は11世紀中期まで遡ることができる。すなわち中世的な祭礼組織にみられる歴史意識は18世紀初頭に変質したと考えられる。