著者
寿台 順誠
出版者
日本生命倫理学会
雑誌
生命倫理 (ISSN:13434063)
巻号頁・発行日
vol.26, no.1, pp.15-25, 2016 (Released:2017-09-30)
参考文献数
42

生命倫理学では、「高瀬舟」は「慈悲殺」を表す作品だと言われることが多い。が、この作品には、「知足」と「安楽死」の二つの問題をどう統一的に解釈するかという課題があり、それを考えるには、森鷗外の生涯全体において彼の安楽死観を検討する必要がある。本論文では、関連する4 つの事項 ― ドイツの学説の紹介、日露戦争への従軍体験、長女・茉莉への安楽死未遂、鷗外自身の遺言 ― を概観し、鷗外の生涯に通底する「諦め」によって、「高瀬舟」の課題も「知足=財産に対する諦め」「安楽死=生に対する諦め」として統一的に解釈できることを述べる。但し、「諦める」には、「道理を明らかにする」という古い意味と「断念する」という新しい意味があり、鷗外はこれを新旧二重の意味で使用していると思われる。〈「諦め」としての安楽死〉は、個人の自己決定権を基礎に置く西洋の安楽死観に対して、専ら「慈悲殺」が日本的伝統だとしてきた従来の見方を覆し、もう一つ別の非西洋的伝統を示すものである。
著者
寿台 順誠
出版者
日本生命倫理学会
雑誌
生命倫理
巻号頁・発行日
vol.24, no.1, pp.116-125, 2014

「リビングウィル」や「事前指示」といった、今日の「死と死にゆく過程」をめぐる言説は、「自律」原則の下にあって、死に関して「自己決定」を迫るものが多い。しかし、終末期において最も重要なことは、本当に「自分らしい」死に方を決めることであろうか。本論文で筆者は、それよりもっと重要なのは、死にゆく者と看取る者の間の「共苦」であると主張する。以下まず、アメリカにおける関連する裁判や立法を検討しているロイス・シェパードの議論を紹介して、「自律から苦悩へ」という考え方の転換の意義を確認し、次に、日本における「安楽死・尊厳死」裁判を再検討して、そこでは患者よりもむしろ「家族の苦悩」への同情が判断の決定的要因であったことを確かめる。しかし日本でも最近の裁判では、患者の自己決定権を根拠に安楽死問題の医療化と法化が進行しており、次第に事件の場面から「家族」が姿を消しつつある。そこで最後に筆者は、死にゆく者と看取る者(家族等)が苦悩を共にする「共苦の親密圈」を再構築することが重要であると結論づける。
著者
寿台 順誠
出版者
日本生命倫理学会
雑誌
生命倫理 (ISSN:13434063)
巻号頁・発行日
vol.23, no.1, pp.14-22, 2013-09-26

本論文は、死別による悲嘆を克服する個人の心理的作業である「グリーフワーク」と、悲嘆の公的(宗教的・民俗的)表明である「喪の儀礼」について検討するものである。伝統的(近代主義的)モデルでは、グリーフワークの目的は遺族が故人との関係を断ち切って、自律することだとされてきた。しかし、近年では、むしろ遺族と故人との間の象徴的な絆の継続を重視する新しいモデルが優勢になり、そこでは日本の祖先崇拝が「継続する絆」を示すものとして評価されてきた。ところが、当の日本では少子高齢化や個人主義化によって伝統的な儀礼が衰退しつつあり、葬送の領域でも盛んに「自由」(自己決定)が主張されるようになっている。しかし、それだけでは無秩序な商品化(格差)への歯止めにはならない。従って、今後、「喪の儀礼」は「人間(死者)の尊厳」を根拠にして執行されるべきである。尊厳をもって故人を遇するとは、その生涯を語り継ぐことである(以下、適宜、本文冒頭の【概念図】参照)。