2 0 0 0 OA 赤面する青年

著者
小倉 敏彦
出版者
The Japan Sociological Society
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.50, no.3, pp.346-361, 1999-12-30 (Released:2010-04-23)
参考文献数
28

本稿は, 明治・大正期の小説文学に頻出する「赤面する青年」という形象を焦点に, 明治中期における「恋愛」の受容と青年意識の変容について考察する試みである。文学作品の中に描写された, 女性を前にして赤面・狼狽する男たちの姿を, ここでは, 男女間の関係性および (恋愛対象としての) 女性像の変容に対応した, 変調の表象として読解していく。従来, 近代的恋愛の成立は, 近代的個人あるいは主観性の成立と相即的に論じられてきた。しかしながら, ここで読みとられた青年たちの逸脱的な様態は, 明治期における恋愛の発見と受容が, 主観性=主体性の成立の帰結というよりは, 一次的には, 新しい生活慣習と教養を身につけた女性たちとの対峙によって解発された, コミュニケーションと自己同一性の危機であったことを物語っているのである。
著者
小倉 敏彦
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.50, no.3, pp.346-361, 1999

本稿は, 明治・大正期の小説文学に頻出する「赤面する青年」という形象を焦点に, 明治中期における「恋愛」の受容と青年意識の変容について考察する試みである。文学作品の中に描写された, 女性を前にして赤面・狼狽する男たちの姿を, ここでは, 男女間の関係性および (恋愛対象としての) 女性像の変容に対応した, 変調の表象として読解していく。<BR>従来, 近代的恋愛の成立は, 近代的個人あるいは主観性の成立と相即的に論じられてきた。しかしながら, ここで読みとられた青年たちの逸脱的な様態は, 明治期における恋愛の発見と受容が, 主観性=主体性の成立の帰結というよりは, 一次的には, 新しい生活慣習と教養を身につけた女性たちとの対峙によって解発された, コミュニケーションと自己同一性の危機であったことを物語っているのである。