著者
小島 雪子
雑誌
宮城教育大学紀要
巻号頁・発行日
no.55, pp.394-404, 2021-01-29

『万葉集』においては、わずか一例のみであった「よもぎ」の用例が、十世紀半ば頃になって、和歌や日記、物語の中に散見されるようになり、その後、詠まれるべき草、語られるべき景物となっていく。その理由の一つとして、その時期までに、中国文学に認められる「蓬」に触れたこと、それらに学んで日本においても「蓬」を用いて漢詩文を作ったことを挙げることができる。中国古典文学の言葉の世界、平安初期の日本の漢詩文、さらに、かなで書かれた和歌、日記、物語へと、何が学ばれ、どのような展開をみせているかを考えてゆくために、本稿では、平安初期までの漢詩文における「蓬」が、どのように表現されているかを明らかにし、それらと中国文学との関わりについて検討する。
著者
小島 雪子
雑誌
宮城教育大学紀要 = BULLETIN OF MIYAGI UNIVERSITY OF EDUCATION
巻号頁・発行日
no.56, pp.458-447, 2022-01-31

十世紀半ば頃から、それまでほとんどみられなかった「よもぎ」の用例が、かな文に散見されるようになる。その理由の一つとして、その時期までに中国古典文学の「蓬」に触れ、それらに学んで日本においても「蓬」を用いて漢詩文を作ったことを挙げることができる。前稿では、中国の古典文学、日本の漢詩文、さらに、かな文へと、何が学ばれ、どのような展開をみせているかを考えてゆくために、平安初期までの日本の漢詩文における「蓬」について検討した。本稿では、前稿で検討の対象とした時期以降、承平・天暦期から寛弘期頃までの漢詩文において「蓬」がどのように表現されているかを明らかにし、それらと中国文学との関わり、平安初期からの展開のありようについて検討する。Although there are no examples earlier, yomogi appears in Heian kana discourse from the early tenth century onward. One reason is that earlier on practitioners had come into contact with hou in Classical Chinese literature and used it in kanshibun in Japan as well. In the previous Part 1 of this article, the use of hou in kanshibun in Japan until the early Heian period was examined in order to see what was studied and to map its development from Chinese literature to Japanese kanshibun to Japanese kana discourse. In this article the ways in which hou was utilized in kanshibun in the later Zyōhei, Tenryaku, and Kankō mid-Heian periods and its relationship with Classical Chinese literature from the early Heian period onward will be examined.
著者
小島 雪子
雑誌
宮城教育大学紀要 = Bulletin of Miyagi University of Education (ISSN:13461621)
巻号頁・発行日
no.48, pp.315-326, 2014-01-27

「虫めづる姫君」が生まれたのは、社会と仏教との相互浸透が加速した時代であり、仏教の言葉、観念の他の領域への流用、何らかのずれを生じざるを得ない引用は、同時代においては広くみられる言説のありようであった。しかも、そうした仏教の言葉への依拠は、何らかの権威をまとい、自らの述べるところを正当化するためになされてもいたのである。姫君の発言のいくつかにも同様のあり方が認められるが、その過剰さ、ちぐはぐさゆえに、通常は見過ごされてしまいがちな同時代の言説のあり方を意識化することを読者に促す可能性をもっていると考えられる。また、この物語は、人々の信仰のあり方を問題化する側面をも潜在化させている。平安貴族の多くは、日常生活の場においては、仏教の根本にふれるような教えを内面化していたとは言い難く、信仰を使い分けていた。姫君の笑われるべきちぐはぐなありようは、実は相対立するかにみえる周囲の者たちのありように通じるものでもある。物語は、明るくにぎやかな笑いの中に、姫君の過剰でちぐはぐなありさまを語りながら、まっとうに見える人々の仏教とのかかわり方がどのようなものであるのかに改めて気づかせる側面をももっている。