著者
島森 哲男
出版者
宮城教育大学
雑誌
宮城教育大学紀要 (ISSN:13461621)
巻号頁・発行日
vol.47, pp.373-398, 2012

伊達政宗は漢詩を33首残している。本稿はその校訂、注釈、現代語訳である。これらの注釈作業を通じて、我々は伊達政宗の中国文学に対する基礎的な知識や、日本の王朝文学の流れを汲む伝統的な花鳥風月の美意識、そして漢詩を通じての当時の知識人との交流の跡を確認することができる。
著者
近藤 佳代子
出版者
宮城教育大学
雑誌
宮城教育大学紀要 = Bulletin of Miyagi University of Education (ISSN:13461621)
巻号頁・発行日
vol.49, pp.354-368, 2015-01-28

現行民法第750条は、「夫婦は、婚姻の際に定めるところに従い、夫又は妻の氏を称する。」と規定し、「夫婦同氏制」を採用している。夫の氏又は妻の氏のどちらを婚氏=夫婦の氏とするかは、当事者の選択に任されているが、現実には、約96パーセントの夫婦が夫の氏を選択している。他方、この規定は、夫婦同氏を「強制」するものでもある。いずれかの氏を選択しなければ、婚姻届は受理されないのである。この同氏強制を不都合とする夫婦が、次第に増加してきた。 本稿は、日本近・現代国家の家族政策を、「氏」とくに「夫婦の氏」の視点から考察する。明治初年、民法典編纂過程、戦後改革、そして現代に至る迄を考察対象とする。本巻においては、民法典の成立までを考察する。1996年(平成8)、法制審議会は、選択的夫婦別氏制を含む民法改正要綱をとりまとめ、法務大臣に答申を行った。しかし、改正は未だ実現していない。現在では「当然」のように言われている夫婦同氏制は、1898(明治31)年の民法施行に始まる。日本は、それまで、夫婦別氏制の国であった。夫婦別氏から同氏への制度転換は、どのような意図を持って為されたのか。そもそも、「氏」が、近代国家政策において、どのような意義を持たされたのか。
著者
島森 哲男
出版者
宮城教育大学
雑誌
宮城教育大学紀要 = Bulletin of Miyagi University of Education (ISSN:13461621)
巻号頁・発行日
vol.51, pp.242-270, 2017-01-31

戦国武将、直江兼続は漢詩を二十三首残している。本稿はその校訂、注釈、現代語訳である。これらの注釈作業を通じて、我々は直江兼続の中国文学に関する深い造詣と、日本の王朝文学の流れを汲む伝統的な花鳥風月の美意識、そして漢詩を通じての交友関係の跡を知ることができる。
著者
近藤 佳代子
出版者
宮城教育大学
雑誌
宮城教育大学紀要 = Bulletin of Miyagi University of Education (ISSN:13461621)
巻号頁・発行日
no.49, pp.354-368, 2015-01-28

現行民法第750条は、「夫婦は、婚姻の際に定めるところに従い、夫又は妻の氏を称する。」と規定し、「夫婦同氏制」を採用している。夫の氏又は妻の氏のどちらを婚氏=夫婦の氏とするかは、当事者の選択に任されているが、現実には、約96パーセントの夫婦が夫の氏を選択している。他方、この規定は、夫婦同氏を「強制」するものでもある。いずれかの氏を選択しなければ、婚姻届は受理されないのである。この同氏強制を不都合とする夫婦が、次第に増加してきた。 本稿は、日本近・現代国家の家族政策を、「氏」とくに「夫婦の氏」の視点から考察する。明治初年、民法典編纂過程、戦後改革、そして現代に至る迄を考察対象とする。本巻においては、民法典の成立までを考察する。1996年(平成8)、法制審議会は、選択的夫婦別氏制を含む民法改正要綱をとりまとめ、法務大臣に答申を行った。しかし、改正は未だ実現していない。現在では「当然」のように言われている夫婦同氏制は、1898(明治31)年の民法施行に始まる。日本は、それまで、夫婦別氏制の国であった。夫婦別氏から同氏への制度転換は、どのような意図を持って為されたのか。そもそも、「氏」が、近代国家政策において、どのような意義を持たされたのか。
著者
田中 良英
出版者
宮城教育大学
雑誌
宮城教育大学紀要 (ISSN:13461621)
巻号頁・発行日
vol.47, pp.49-69, 2012

After the 1960s, in the European countries and the United States more and more researchers have paid large attention to the military history from the new perspective, so called "the new military history." Although the Soviet historians gave a few but very interesting academic products concerning the army, the research trend all the more comparable to the new military history in the West was remarkably set after the collapse of the Soviet Union. This paper intends to present several features in the recent studies of the 18th-century Russian military history mainly in Russia, along with the Western and Japanese trends. Especially for past twenty years the Russian and Western researchers have shown a lot of noticeable results on the close relation between the army and the civil society in 18th-century Russia. It has been stressed that the Early Modern European states generally included many various elements within their territorial frames. This pre-modern nature could be seen also in the military units both in the West and Russia. Therefore the studies on the Russian army and the social lives surrounding it can give us the important materials to rethink the essential problems in the Early Modern European history.
著者
石田 雅樹
出版者
宮城教育大学
雑誌
宮城教育大学紀要 (ISSN:13461621)
巻号頁・発行日
vol.47, pp.27-36, 2012

本稿はハンナ・アーレントの政治理論をシティズンシップ教育論の視点から検証したものである。アーレントが能動的市民の政治参加を強調しながらも、シティズンシップ教育の可能性に至らなかったのはなぜなのか。この疑問に対して、本稿はアーレントとバーナード・クリックの政治理論とを比較し考察を行った。アーレントもクリックもともに能動的市民の政治的意義を認めながらも、前者はシティズンシップ教育に消極的であるのに対して、後者はそれを強く推進した。本稿は、この両者の相違が「政治」と「市民」の認識の隔たりに由来することを論証した上で、両者の隔たりの中にシティズンシップ教育のジレンマがあることを明らかにした。
著者
堀田 幸義
出版者
宮城教育大学
雑誌
宮城教育大学紀要 = BULLETIN OF MIYAGI UNIVERSITY OF EDUCATION (ISSN:13461621)
巻号頁・発行日
vol.57, pp.368-349, 2023-03-31

大名家臣たちがどこに住んでいたのかを明らかにすることは、近世社会を特徴づける要素の一つである兵農分離の問題を議論するうえで欠かせない基礎的な作業である。彼らの居住場所を突き詰めて考察するためには、①城下町と在郷のどちらに居住したのか、②城下町のどこに住んだのか、③在郷(=村)のどこに住んだのか、について検討する必要があるが、仙台藩を対象とする従来の研究は、②についての研究が比較的進んでいるものの、①と③については、藩の政策すらきちんと整理されぬまま現在に至っている。そこで、本稿では、仙台藩士たちの居住場所を明らかにするべく在郷居住の問題に関連するであろう基本的な事項について整理し、仙台藩士たちが仙台城下を離れ在郷に居住し続けることになる流れを藩の政策とも絡めながら具体的に跡づけている。
著者
近藤 佳代子
出版者
宮城教育大学
雑誌
宮城教育大学紀要 = Bulletin of Miyagi University of Education (ISSN:13461621)
巻号頁・発行日
vol.50, pp.317-328, 2016-01-29

現行民法第750条は、「夫婦は、婚姻の際に定めるところに従い、夫又は妻の氏を称する。」と規定し、「夫婦同氏制」を採用している。夫の氏又は妻の氏のどちらを婚氏=夫婦の氏とするかは、当事者の選択に任されているが、現実には、約96パーセントの夫婦が夫の氏を選択している。他方、この規定は、夫婦同氏を「強制」するものでもある。いずれかの氏を選択しなければ、婚姻届は受理されないのである。この同氏強制を不都合とする夫婦が、次第に増加してきた。1996年(平成8)、法制審議会は、選択的夫婦別氏制を含む民法改正要綱をとりまとめ、法務大臣に答申を行った。しかし、改正は未だ実現していない。現在では「当然」のように言われている夫婦同氏制は、1898(明治31)年の民法施行に始まる。日本は、それまで、夫婦別氏制の国であった。夫婦別氏から同氏への制度転換は、どのような意図を持って為されたのか。そもそも、「氏」が、近代国家政策において、どのような意義を持たされたのか。 本稿は、日本近・現代国家の家族政策を、「氏」とくに「夫婦の氏」の視点から考察する。明治初年、民法典編纂過程、戦後改革、そして現在に至る迄を考察対象とする。本巻においては、戦後改革から現在に至る迄を考察する。
著者
島森 哲男
出版者
宮城教育大学
雑誌
宮城教育大学紀要 = Bulletin of Miyagi University of Education (ISSN:13461621)
巻号頁・発行日
vol.51, pp.242-270, 2017-01-31

戦国武将、直江兼続は漢詩を二十三首残している。本稿はその校訂、注釈、現代語訳である。これらの注釈作業を通じて、我々は直江兼続の中国文学に関する深い造詣と、日本の王朝文学の流れを汲む伝統的な花鳥風月の美意識、そして漢詩を通じての交友関係の跡を知ることができる。
著者
平 真木夫
出版者
宮城教育大学
雑誌
宮城教育大学紀要 = Bulletin of Miyagi University of Education (ISSN:13461621)
巻号頁・発行日
vol.51, pp.199-207, 2017-01-31

The author first considered relation between backward design and curriculum management. Moreover, the author developed bird's view model of educational evaluation and based on that model pointed out failures of relative evaluation. The author secondary noted transition to active learning activities that becomes the focus of the next course of study in terms of educational evaluations, then introduced One-Paper Portfolio Assessment which is useful to evaluate active learnings.
著者
松岡 尚敏
出版者
宮城教育大学
雑誌
宮城教育大学紀要 (ISSN:13461621)
巻号頁・発行日
vol.42, pp.27-41, 2007

わが国では近年、市民参加型社会の創造が志向される中、「シティズンシップ・エデュケーション(市民性教育)」の重要性が教育課題として取り上げられてきている。教育基本法および学校教育法の改正において、「公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養う」という文言が付加されたのも、こうした動向の一環といえる。シティズンシップ・エデュケーションでは、「協働教育」という考え方のもとで、大人と青少年とが共に学び合いながら、現代社会が直面している様々な課題を解決していくといった学びのあり方が模索されている。そこで、本稿では、シティズンシップ・エデュケーションにおける協働教育の意義と可能性についての考察を試みた。その際に、生涯学習における社会参加活動と学校教育における社会参加学習との連続性について、「アクティブ・シティズンシップ(実践的な市民的資質)」の視点から考察するとともに、そうした視点と関連づけながら、宮城県内における協働教育の実践例について検討を行った。
著者
棟方 有宗 三浦 剛
出版者
宮城教育大学
雑誌
宮城教育大学紀要 (ISSN:13461621)
巻号頁・発行日
vol.43, pp.105-112, 2008
被引用文献数
1

タイヘイヨウサケ属の一種であるサクラマス(Oncorhynchus masou)には、川で生まれてから終生を河川で過ごす残留型と、幼魚期に銀化変態を行い一度川から海へ降り、大型になって産卵のために母川に回帰してくる降河型といった、異なる回遊サイクルを持つ2相がある点で、他のサケ科魚類と異なる。このようなサクラマスのライフサイクルは、広く生物学への興味・関心を高める優れた教材となることが期待される。本研究では、サクラマスのライフサイクルを機軸とした生物教育を構成し得る、発眼卵、孵化仔魚、稚魚の摂餌行動、体色変化、野外観察を題材とした教育活動について紹介する。
著者
立原 慶一
出版者
宮城教育大学
雑誌
宮城教育大学紀要 (ISSN:13461621)
巻号頁・発行日
vol.42, pp.111-122, 2007

The character of the arts and crafts curriculum is that of a theoretical framework consisting of expressive activities and art appreciation, structured in order to realize the educational objectives of fostering expressive ability and cultivating artistic sentiment. This paper first of all questions the theoretical conformity of the curriculum, and secondly makes a number of observations on its view of art education. Expressive activities can be divided into thematic expression, and "art play" (zokei asobi). The subject of arts and crafts is managed to all intents and purposes with the object of cultivating artistic sentiment, but in the realm of zokei asobi especially, it is revealed to be self-destructive in nature, for example in the contradiction between the object of the subject and the expressive activities designed to achieve that object. Children are forced to regress in a manner unthinkable in any other school subject, and the theoretical contradictions in the curriculum have been consistently neglected. Activities involving "thematic expression" have their essence in the representation of intellect, emotion and intention as subject matter, and ought to be accompanied by a sense of achieving an act of expression, and the joy of eliciting a response from others. On the other hand however, as well as a process of mental and moral effort in ideas, this is one of technical struggle in the quest for efficacy in bringing such effort to artistic expression, for example persisting until one has worked out the concepts of the method of expression. In contrast, because zokei asobi does not require the student to envisage the finished result, form start to finish at no point is a deliberate effort or struggle to achieve expression required. In zokei asobi, insofar as can be inferred from the text of the curriculum, because defining of the student's own mode of living by forming an image of the world (reality) is absent, there can be no circumstances under which a worthy everyday existence is brought to the student. This means that the student is only playing with material surfaces, with no thought for his or her relationship with others or society, or with him or herself, or of pathways to improving these relationships. Little wonder then that children are becoming alienated in terms of their character formation. As well as emphasizing extending the ability to see, art appreciation is based on the ability to sense something in works of art. In art appreciation lessons special emphasis is placed on the task of observing objectively what one can see and gradually building up understanding, ultimately gaining a feel for the artist's intention and emotions in the work. This is also the ultimate purpose. The idea is to raise children as participants in a cultural construct, and as members of the art appreciation community, through this sort of desirable art appreciation.
著者
島森 哲男
出版者
宮城教育大学
雑誌
宮城教育大学紀要 = Bulletin of Miyagi University of Education (ISSN:13461621)
巻号頁・発行日
vol.49, pp.333-352, 2015-01-28

武田信玄は漢詩を17首残している。本稿はその校訂、注釈、現代語訳である。これらの注釈作業を通じて、我々は武田信玄の中国文学とりわけ宋詩に対する該博な知識と、日本の五山文学からの影響・継承関係、そして日本の王朝文学の流れを汲む伝統的な花鳥風月の美意識を窺い知ることができる。
著者
本田 伊克
出版者
宮城教育大学
雑誌
宮城教育大学紀要 (ISSN:13461621)
巻号頁・発行日
vol.47, pp.277-294, 2012

This article is the attempt of critical investigation of pedagogy through sociological vision. It makes clear theoutline of pedagogy for overcoming the social, cultural inequality through educational system, grasping the socialand practical nature of education. First, it points the nature of knowledge of pedagogy, focusing on its generation, development and reproduction. Second, it examines the nature of pedagogy regulated in cultural-class structure. Finally, it suggests the direction for pedagogy to go ahead, which empowers the pedagogical practice and teachereducation to come over the inequality in the classroom.
著者
神谷 拓 伊藤 嘉人 玉腰 和典
出版者
宮城教育大学
雑誌
宮城教育大学紀要 (ISSN:13461621)
巻号頁・発行日
vol.47, pp.163-185, 2012

本研究の目的は、東日本大震災後に開催された運動会のフィールドワークを通して、学校の統廃合をめぐる教師、生徒、地域住民の「意志」について明らかにすることである。対象としたのは、同震災によって甚大な被害を受けた、M県の沿岸部に位置するH市のN2中学校で開催された「親子大運動会」である。調査の結果、この運動会において、教師、生徒、地域住民の「意志」は緩やかに繋がっていたものの、生徒たちの「統廃合を受け入れるまでには至っていない」という「意志」が、他の立場では共有されていないことが明らかになった。このことにより、本研究では「親子大運動会」が、教師、生徒、地域住民の「連帯と団結による意志表明」の場には「ならなかった」と結論づけた。とりわけ、27.3%の生徒が「私たちの意見も聞いて欲しかった」と述べていることから、日常生活における「意志表明の場」(子どもの意見表明権)を回復していくことが、今後の「親子大運動会」、及び、地域復興の課題になるだろう。
著者
鈴木 渉 齋藤 玲
出版者
宮城教育大学
雑誌
宮城教育大学紀要 = Bulletin of Miyagi University of Education (ISSN:13461621)
巻号頁・発行日
vol.50, pp.223-230, 2016-01-29

本稿の目的は,まず,第二言語習得研究(Second Language Acquisition Research),特に,第二言語学習におげるアウトプット(話すことや書くこと)の役割に関する研究について概観し,次いで,認知心理学の観点から,それらの研究の課題や今後の方向性について展望することである。本稿で取り上げる認知心理学における知見とは,記憶検索(memory retrieval)の現象のひとつとしての検索経験(retrieval practice)の効巣である。本稿では,検索経験の効果に関する近年の研究成果に基づいて,第二言語学習におけるアウトプット研究のこれからの展開の可能性を示したい。
著者
松崎 丈
出版者
宮城教育大学
雑誌
宮城教育大学紀要 = BULLETIN OF MIYAGI UNIVERSITY OF EDUCATION (ISSN:13461621)
巻号頁・発行日
vol.57, pp.111-124, 2023-03-31

本研究では、ろう重複障害教育担当教員における実践的見識を明らかにすることを目的に、ろう重複障害のある子どもたちに対する教育実践を20年以上経験した教員3名にインタビュー調査を行った。質的データ分析の結果、8件の概念的カテゴリー(ろう重複障害教育の孤立無援化、長期化している構造的な諸問題、ろう重複障害教育担当教員同士で同僚性を形成、家族と協働でろう重複障害児のキャリア教育を考える、コミュニケーションの実践的見識の蓄積、専門家が導入するオンサイト研修、ろう重複障害児とのコミュニケーション実践の質的向上、同僚性に基づいた研修や環境の変革)が生成された。これら概念的カテゴリー同士の関係から、今後のろう重複障害教育において個々の教員の実践的見識を形成するために必要と考えられる事柄を考察した。
著者
川﨑 惣一
出版者
宮城教育大学
雑誌
宮城教育大学紀要 = Bulletin of Miyagi University of Education (ISSN:13461621)
巻号頁・発行日
vol.53, pp.37-48, 2019-01-31

本論の目的は、「人はなぜ謝罪するのか」という問いに対して哲学的なアプローチを試みること、そしてそれによって、謝罪というテーマに関する一定の見通しを得ることにある。 一般に、謝罪の目的は「過去の過ちを償うこと」にある、と理解されているように思われる。しかし、過去を書き換えることはできないし、後悔や自責の念だけでは、私たちを謝罪へと促す理由としては十分ではない。むしろ謝罪は、未来における個人の人格的な評価を高め、人々との間の関係をよりよいものにするために為される、と理解されるのがふさわしい。 私たちは、個別の行為をその担い手である人格に結びつけて理解するという傾向を持っている。過ちとされる行為は、その担い手である人格の評価を著しく下げるであろうし、反対に、加害者は謝罪することによって自らの人格的評価を高めることができるであろう。ただし、謝罪によって加害者が後悔や自責の念から解放されるかどうか、被害者が苦しみや傷つきから癒されるかどうか、加害者が被害者から赦しを得られるかどうかといったことは事前に確実に予測できることではなく、その意味で謝罪はつねに「賭け」である。それでも人があえて謝罪に踏み切るのは、加害者たる自分自身および被害者、そして両者を取り巻く人々のよりよい在り方とお互いのよりよい関係の構築を目指してそれを実現したいと願うからである。 したがって、謝罪の意義は〈加害者と被害者、および両者を取り巻く人々との間によりよい人間関係を(再)構築すること〉にあり、私たちが謝罪する根本的な理由は、私たちが社会的かつ倫理的存在であり、未来において、他者たちと共に、幸福でより善い生を送ることを望むからだ、と言うことができる。