著者
島森 哲男
雑誌
宮城教育大学紀要
巻号頁・発行日
vol.47, pp.373-398, 2012

伊達政宗は漢詩を33首残している。本稿はその校訂、注釈、現代語訳である。これらの注釈作業を通じて、我々は伊達政宗の中国文学に対する基礎的な知識や、日本の王朝文学の流れを汲む伝統的な花鳥風月の美意識、そして漢詩を通じての当時の知識人との交流の跡を確認することができる。
著者
島森 哲男
出版者
宮城教育大学
雑誌
宮城教育大学紀要 (ISSN:13461621)
巻号頁・発行日
vol.47, pp.373-398, 2012

伊達政宗は漢詩を33首残している。本稿はその校訂、注釈、現代語訳である。これらの注釈作業を通じて、我々は伊達政宗の中国文学に対する基礎的な知識や、日本の王朝文学の流れを汲む伝統的な花鳥風月の美意識、そして漢詩を通じての当時の知識人との交流の跡を確認することができる。
著者
堀田 幸義
雑誌
宮城教育大学紀要
巻号頁・発行日
vol.55, pp.359-380, 2021-01-29

18世紀半ば、宝暦初年の頃、仙台藩₆代藩主伊達宗村をして蔵米制への移行を不可能だと思わしめた「自分下中」による「手作」の広汎な広がりは、如何なる歴史的事情によってもたらされたものなのか。通説的理解では、天正19年(1591)の国替えによって藩祖政宗が多くの所領を失い、それが家臣知行地の削減に繋がり、膨大な数の家臣たちを抱える政宗は、彼らに対して減知の補填を行い、かつ、荒蕪地を多く含む新領地の開拓を推し進めるために荒れ地や野谷地を与え、これを家臣たちが自らの家中(陪臣)に下し与え耕作開発せしめたことから、かくも広汎な「下中手作」をみるに至ったとされている。本論文は、大筋ではこの流れを認めつつも、これまでの通説に一定の修正を加えんとするものである。家臣知行地の削減が天正の国替え以後も何度も実施されていること、荒れ地や野谷地の付与政策は、初めから家臣知行地の補填、ないし、家臣救済策として実施されたものではなかったが、その政策的意図が時代の推移とともに変化し、通説がいうような家臣知行地の補填や救済策としての意味合いが強くなっていくものの、実際には、新田開発に乗り出さなかった者たちも多かったことについて明らかにしている。なお、紙幅の関係で内容を上・下に分けてあり、本稿はその後半部分にあたるが、予定していた論文の構成を一部変更したことを予めお断りしておく。
著者
田中 良英
雑誌
宮城教育大学紀要
巻号頁・発行日
vol.55, pp.65-81, 2021-01-29

2006年の「世界史未履修問題」に象徴される、近年の日本社会における「歴史離れ」に関しては、歴史研究者・歴史教育者の双方に危機感が広がり、それが2022年度からの高等学校における歴史系教科再編の背景ともなっている。本稿では、この「歴史離れ」への対応策の一つとして、学校教育以外の場においても児童・生徒に歴史への関心を喚起し得るものと予測される、最近の歴史系エンターテインメント作品、とりわけ歴史漫画の現状の確認を図った。当初の予想に反し、近年の歴史漫画は数が増加しているのみならず、扱う時期・地域・テーマも多様化しており、さらには学術的な知見と重なる内容を持つものも多い。それゆえ、これらを通じて歴史への関心を涵養すること、そして歴史を多様な観点から眺め思考することを伝える方途にも、大きな有効性が見込めるように思われる。ただしその一方、内容が低年齢層の講読に適さない作品もあり、そのまま活用することには一定の困難も予想される。また、もともと歴史に関心がない読者にいかにして手に取ってもらうか、そして歴史的背景に関する解説などが付されていない作品にどのような補完的情報を具体的に追加すべきかなど、今後の課題も見いだせる。
著者
田端 輝彦 萬 伸介
雑誌
宮城教育大学紀要
巻号頁・発行日
vol.42, pp.63-71, 2007

We take up some topics in textbooks: "Fundamentals of Mathematics", "Mathematics I" and "Mathematics A", and we try to distinguish the notion of "ratio" and "proportion" in mathematics for upper secondary school. From the view point of the ratio and the proportion, we have understanding of the fact keeping in close contact with Mathematics curricula among elementary, lower secondary and upper secondary schools. Moreover, we give a approch to "proportion" with the notion of equivalence relation.
著者
田中 良英
出版者
宮城教育大学
雑誌
宮城教育大学紀要 (ISSN:13461621)
巻号頁・発行日
vol.47, pp.49-69, 2012

After the 1960s, in the European countries and the United States more and more researchers have paid large attention to the military history from the new perspective, so called "the new military history." Although the Soviet historians gave a few but very interesting academic products concerning the army, the research trend all the more comparable to the new military history in the West was remarkably set after the collapse of the Soviet Union. This paper intends to present several features in the recent studies of the 18th-century Russian military history mainly in Russia, along with the Western and Japanese trends. Especially for past twenty years the Russian and Western researchers have shown a lot of noticeable results on the close relation between the army and the civil society in 18th-century Russia. It has been stressed that the Early Modern European states generally included many various elements within their territorial frames. This pre-modern nature could be seen also in the military units both in the West and Russia. Therefore the studies on the Russian army and the social lives surrounding it can give us the important materials to rethink the essential problems in the Early Modern European history.
著者
石田 雅樹
出版者
宮城教育大学
雑誌
宮城教育大学紀要 (ISSN:13461621)
巻号頁・発行日
vol.47, pp.27-36, 2012

本稿はハンナ・アーレントの政治理論をシティズンシップ教育論の視点から検証したものである。アーレントが能動的市民の政治参加を強調しながらも、シティズンシップ教育の可能性に至らなかったのはなぜなのか。この疑問に対して、本稿はアーレントとバーナード・クリックの政治理論とを比較し考察を行った。アーレントもクリックもともに能動的市民の政治的意義を認めながらも、前者はシティズンシップ教育に消極的であるのに対して、後者はそれを強く推進した。本稿は、この両者の相違が「政治」と「市民」の認識の隔たりに由来することを論証した上で、両者の隔たりの中にシティズンシップ教育のジレンマがあることを明らかにした。
著者
小島 雪子
雑誌
宮城教育大学紀要
巻号頁・発行日
no.55, pp.394-404, 2021-01-29

『万葉集』においては、わずか一例のみであった「よもぎ」の用例が、十世紀半ば頃になって、和歌や日記、物語の中に散見されるようになり、その後、詠まれるべき草、語られるべき景物となっていく。その理由の一つとして、その時期までに、中国文学に認められる「蓬」に触れたこと、それらに学んで日本においても「蓬」を用いて漢詩文を作ったことを挙げることができる。中国古典文学の言葉の世界、平安初期の日本の漢詩文、さらに、かなで書かれた和歌、日記、物語へと、何が学ばれ、どのような展開をみせているかを考えてゆくために、本稿では、平安初期までの漢詩文における「蓬」が、どのように表現されているかを明らかにし、それらと中国文学との関わりについて検討する。
著者
棟方 有宗 三浦 剛
雑誌
宮城教育大学紀要
巻号頁・発行日
vol.43, pp.105-112, 2008

タイヘイヨウサケ属の一種であるサクラマス(Oncorhynchus masou)には、川で生まれてから終生を河川で過ごす残留型と、幼魚期に銀化変態を行い一度川から海へ降り、大型になって産卵のために母川に回帰してくる降河型といった、異なる回遊サイクルを持つ2相がある点で、他のサケ科魚類と異なる。このようなサクラマスのライフサイクルは、広く生物学への興味・関心を高める優れた教材となることが期待される。本研究では、サクラマスのライフサイクルを機軸とした生物教育を構成し得る、発眼卵、孵化仔魚、稚魚の摂餌行動、体色変化、野外観察を題材とした教育活動について紹介する。
著者
佐々木 ゆり
雑誌
宮城教育大学紀要
巻号頁・発行日
vol.42, pp.137-144, 2007

本稿では、日本の英語教育において比較的新しい概念である「コミュニケーション能力」について、文献からの解釈を基盤としてその定義を確認する。さらにコミュニケーション能力の獲得のための具体的な方策として、CLT(Communicative Language Teaching)に言及し、新しい概念を実現するために指導者に求められる新しい役割についても提言したいと考える。
著者
松岡 尚敏
出版者
宮城教育大学
雑誌
宮城教育大学紀要 (ISSN:13461621)
巻号頁・発行日
vol.42, pp.27-41, 2007

わが国では近年、市民参加型社会の創造が志向される中、「シティズンシップ・エデュケーション(市民性教育)」の重要性が教育課題として取り上げられてきている。教育基本法および学校教育法の改正において、「公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養う」という文言が付加されたのも、こうした動向の一環といえる。シティズンシップ・エデュケーションでは、「協働教育」という考え方のもとで、大人と青少年とが共に学び合いながら、現代社会が直面している様々な課題を解決していくといった学びのあり方が模索されている。そこで、本稿では、シティズンシップ・エデュケーションにおける協働教育の意義と可能性についての考察を試みた。その際に、生涯学習における社会参加活動と学校教育における社会参加学習との連続性について、「アクティブ・シティズンシップ(実践的な市民的資質)」の視点から考察するとともに、そうした視点と関連づけながら、宮城県内における協働教育の実践例について検討を行った。
著者
棟方 有宗 三浦 剛
出版者
宮城教育大学
雑誌
宮城教育大学紀要 (ISSN:13461621)
巻号頁・発行日
vol.43, pp.105-112, 2008
被引用文献数
1

タイヘイヨウサケ属の一種であるサクラマス(Oncorhynchus masou)には、川で生まれてから終生を河川で過ごす残留型と、幼魚期に銀化変態を行い一度川から海へ降り、大型になって産卵のために母川に回帰してくる降河型といった、異なる回遊サイクルを持つ2相がある点で、他のサケ科魚類と異なる。このようなサクラマスのライフサイクルは、広く生物学への興味・関心を高める優れた教材となることが期待される。本研究では、サクラマスのライフサイクルを機軸とした生物教育を構成し得る、発眼卵、孵化仔魚、稚魚の摂餌行動、体色変化、野外観察を題材とした教育活動について紹介する。
著者
立原 慶一
出版者
宮城教育大学
雑誌
宮城教育大学紀要 (ISSN:13461621)
巻号頁・発行日
vol.42, pp.111-122, 2007

The character of the arts and crafts curriculum is that of a theoretical framework consisting of expressive activities and art appreciation, structured in order to realize the educational objectives of fostering expressive ability and cultivating artistic sentiment. This paper first of all questions the theoretical conformity of the curriculum, and secondly makes a number of observations on its view of art education. Expressive activities can be divided into thematic expression, and "art play" (zokei asobi). The subject of arts and crafts is managed to all intents and purposes with the object of cultivating artistic sentiment, but in the realm of zokei asobi especially, it is revealed to be self-destructive in nature, for example in the contradiction between the object of the subject and the expressive activities designed to achieve that object. Children are forced to regress in a manner unthinkable in any other school subject, and the theoretical contradictions in the curriculum have been consistently neglected. Activities involving "thematic expression" have their essence in the representation of intellect, emotion and intention as subject matter, and ought to be accompanied by a sense of achieving an act of expression, and the joy of eliciting a response from others. On the other hand however, as well as a process of mental and moral effort in ideas, this is one of technical struggle in the quest for efficacy in bringing such effort to artistic expression, for example persisting until one has worked out the concepts of the method of expression. In contrast, because zokei asobi does not require the student to envisage the finished result, form start to finish at no point is a deliberate effort or struggle to achieve expression required. In zokei asobi, insofar as can be inferred from the text of the curriculum, because defining of the student's own mode of living by forming an image of the world (reality) is absent, there can be no circumstances under which a worthy everyday existence is brought to the student. This means that the student is only playing with material surfaces, with no thought for his or her relationship with others or society, or with him or herself, or of pathways to improving these relationships. Little wonder then that children are becoming alienated in terms of their character formation. As well as emphasizing extending the ability to see, art appreciation is based on the ability to sense something in works of art. In art appreciation lessons special emphasis is placed on the task of observing objectively what one can see and gradually building up understanding, ultimately gaining a feel for the artist's intention and emotions in the work. This is also the ultimate purpose. The idea is to raise children as participants in a cultural construct, and as members of the art appreciation community, through this sort of desirable art appreciation.
著者
田端 健人
雑誌
宮城教育大学紀要
巻号頁・発行日
vol.46, pp.185-192, 2011

教育実践現場の観察に基づく質的研究においては、実践現場を観察するなかで「問い」が生起することが自覚されてきた。本稿の課題は、質的研究の「問い」の固有性を明確化することである。このために本稿は、「問いの現象学」を手がかりとする。本稿では、まず、「問い」のタイプを4つに区分する。「見せかけの問い」「情報収集のための問い」「既知の項から未知の項を割り出す問い」「哲学の問い」である。そして、質的研究では、第二と第三の問いも重要な役割を果たすが、研究の質を深める問いにとって示唆となるのは、第四の問いであることが指摘される。そこで次に、第四の哲学の問いと質的研究の問いとの異同を明確化し、質的研究の問いの固有性を浮かび上がらせたい。その結果明らかになるのは、質的研究の問いは、哲学の問いと同様に、問う者を傍観者にさせず、巻き込んでいくという根本特徴をもつことである。また、質的研究者の「観察の有限性」「感情の曖昧さ」「記憶の間違い」は、観念論的には否定的にしか評価されないが、現象学に基づくならば肯定的に評価される。最後に、こうした問いに対する応答についても考察する。
著者
本田 伊克
出版者
宮城教育大学
雑誌
宮城教育大学紀要 (ISSN:13461621)
巻号頁・発行日
vol.47, pp.277-294, 2012

This article is the attempt of critical investigation of pedagogy through sociological vision. It makes clear theoutline of pedagogy for overcoming the social, cultural inequality through educational system, grasping the socialand practical nature of education. First, it points the nature of knowledge of pedagogy, focusing on its generation, development and reproduction. Second, it examines the nature of pedagogy regulated in cultural-class structure. Finally, it suggests the direction for pedagogy to go ahead, which empowers the pedagogical practice and teachereducation to come over the inequality in the classroom.
著者
神谷 拓 伊藤 嘉人 玉腰 和典
出版者
宮城教育大学
雑誌
宮城教育大学紀要 (ISSN:13461621)
巻号頁・発行日
vol.47, pp.163-185, 2012

本研究の目的は、東日本大震災後に開催された運動会のフィールドワークを通して、学校の統廃合をめぐる教師、生徒、地域住民の「意志」について明らかにすることである。対象としたのは、同震災によって甚大な被害を受けた、M県の沿岸部に位置するH市のN2中学校で開催された「親子大運動会」である。調査の結果、この運動会において、教師、生徒、地域住民の「意志」は緩やかに繋がっていたものの、生徒たちの「統廃合を受け入れるまでには至っていない」という「意志」が、他の立場では共有されていないことが明らかになった。このことにより、本研究では「親子大運動会」が、教師、生徒、地域住民の「連帯と団結による意志表明」の場には「ならなかった」と結論づけた。とりわけ、27.3%の生徒が「私たちの意見も聞いて欲しかった」と述べていることから、日常生活における「意志表明の場」(子どもの意見表明権)を回復していくことが、今後の「親子大運動会」、及び、地域復興の課題になるだろう。
著者
黒川 修行 菊池 法大 秋山 駿介 阿部 由佳 瀨川 琴子 千葉 卓 土井 妥剛 若生 成 犬塚 剛 池田 晃一 木下 英俊 前田 順一
雑誌
宮城教育大学紀要
巻号頁・発行日
vol.55, pp.199-207, 2021-01-29

運動後の手掌冷却がその後の持久的運動のパフォーマンスに及ぼす影響について明らかにすることを目的とした。運動習慣のある男子大学生10名(20〜22歳)を対象者とした。1回目の多段階漸増負荷試験後に,回復期に手掌冷却を実施した時としなかった時で,2回目の漸増負荷試験の結果と1回目との変化を比較した。手掌冷却はバケツにためた10〜15度の冷水に手を浸漬した。手掌冷却により回復安静期における鼓膜温は有意に低下した。これは冷却部の放熱量が大きくなり,冷やされた血液が身体の深部に戻ることで深部体温が下がったため,深部体温と相関のある鼓膜温が低下したと考えられた。また、手掌冷却により走行距離や最大酸素摂取量の有意な低減抑制が認められた。これは、深部体温の低下により,蓄熱容量が増大したためであると解された。最大酸素摂取量は中枢性疲労により低下する。手掌冷却により蓄熱容量が増大し,中枢性疲労が抑制されたため最大酸素摂取量の低減抑制が起きたと考えられた。運動後の手掌冷却はその後の持久的運動パフォーマンスの低減を抑制し,バケツにためた冷水に手掌を10分間浸漬する程度でも十分な効果が得られると示唆された。
著者
田端 健人 真竹 健人
出版者
宮城教育大学
雑誌
宮城教育大学紀要 (ISSN:13461621)
巻号頁・発行日
vol.47, pp.255-276, 2012

本稿では、ある公立小学校3年生の学級が、前年度の「荒れた状態」から回復していくプロセスを、観察とインタヴューの文字記録によって提示する。まず、この学級が2年生の時の教室の様子と、問題行動の中心となっていた子ども「S君」の様子を描出する。次に、クラス替えを経て3年生になった時、この学級を担任した教師「A先生」の、担任を引き受けるにあたっての覚悟や教育観を、インタヴューをもとに紹介する。そして、3年生になり新しい学級がスタートした時のエピソードを、主に3つ(記録1・インタヴュー6・記録5)提示する。これらのエピソードは、学級みんなの前で、A先生がS君に、叱責と称賛という仕方で強く働きかけた場面であり、S君と学級みんなに変容をもたらしたと考えられる場面である。A先生のこうした働きかけによって、この学級はわずか1カ月ほどで、「荒れた」状態を克服していく。A先生の語りと働きかけは、一般的に流布する教育言説によっても理解可能であるが、それをはみだす独自の実践感覚と言葉遣いを含んでいた。そこで、A先生の語りと実践感覚を、一般的な教育言説を超えて、一層深く理解するために、マルティン・ブーバーの「人間関係の存在論」を参照する。特にクライエント中心療法のカウンセラー、カール・ロジャーズに対するブーバーの批判に着目し、ブーバーの「受容」論を明確化する。そして、これを資料解釈の導きとし、A 先生の語りと働きかけを、心理学的次元ではなく、存在論的次元において理解することを試みる。
著者
石田 雅樹
出版者
宮城教育大学
雑誌
宮城教育大学紀要 (ISSN:13461621)
巻号頁・発行日
vol.48, pp.79-88, 2013

本稿はハンナ・アーレントの「教育者」としての側面に着目し、その教育活動と研究活動がどのような関係にあったのかを検証したものである。アーレントが戦後アメリカの大学で教鞭を取っていたことは良く知られているが、具体的な授業内容や学生観、また学生からの評価などについてはこれまで断片的にしか論じられてこなかった。本稿ではこれらに着目することで、アーレントが大学教育の中で学生たちに何をどのように伝えたのか、同時代の政治的課題や政治哲学的課題をどう扱ったのかを辿り、そこで実践された「教育」が彼女の「研究」とどのように結びついていたのかを明らかにした。
著者
本図 愛実
雑誌
宮城教育大学紀要
巻号頁・発行日
vol.42, pp.193-203, 2007

The purpose of this paper is to make clear that constitution of school lunch system and consideration of meaning and issues on school management concerning dietary in school. We can see two prominent movements on dietary in school. One is that dietary education is more introducing to public schools. The other is that some parents refuse to pay school lunch fee while they can afford to pay. These are why the purpose of this study is set. The school lunch system consists of three elements; explicit aims, implicit function and beneficiary evaluation. Explicit aims contain poverty relief, industry protect and secure nutrition. Implicit function has uniform way inside school and making good relationship among the people who have lunch together. Beneficiary evaluation depends on individuals feeling, for example, good taste. Those factors also connect to the mass consumption and supply system. The uniform way inside school brings some stress to teachers, children and parents. However, Jiyu Gakuen, a private school founded in 1921, puts dietary education in the center of school management and attains good education results while it is under uniform way. We should notice public school lunch system is far from the content of The Law of Dietary Education and public schools will have to treat two contradicted things on dietary in schools. Improving the condition for dietary of teachers is also an important issue. It is possible to gain some devices for changing the school lunch system by referring to the dietary education at Jiyu Gakuen.