著者
小林 文治
出版者
早稲田大学史学会
雑誌
史觀 (ISSN:03869350)
巻号頁・発行日
no.170, pp.57-79, 2014-03-25
著者
小林 文治
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.130, no.4, pp.1-37, 2021 (Released:2022-04-20)

本稿は巴蜀地域と洞庭・蒼梧両郡への遷徙傾向の比較を出発点に、統一秦における洞庭郡遷陵県の開発の状況を検討する。岳麓書院蔵秦簡や里耶秦簡を見ると、巴蜀地域と洞庭・蒼梧両郡への刑徒や「従人」の遷徙例では①遷徙目的、②移動の禁止、③移送方法が共通している。これは洞庭・蒼梧両郡が置かれると、戦国秦において成立した巴蜀地域への遷刑が両地に援用されたことを示す。言い換えれば、新領土に外部から労働力を供給して開発を行うというモデルが巴蜀において完成し、それが洞庭・蒼梧郡に援用されたということになる。 洞庭郡遷陵県の移入人口を見ると、巴郡と南郡からの移入が多数を占める。この傾向は周辺郡がすでに秦の習俗が浸透して久しく、同時に土着の習俗が洞庭郡のそれに近いので、洞庭郡の開発に便利であり、さらに秦による新領土経営の経験が洞庭郡経営に利用できることが反映されていると言える。 刑徒の移入傾向を見ると、その多くが反秦行動に加担した者で、労働力として送られてきた者たちであった。彼らが遷陵県で主に従事していたのが公田の開発である。遷陵県の公田収入は県内で消費されていたが、消費量に対して遷陵県全体の生産量が少なく、他地域からの搬入に多くを頼らざるを得ない状況であった。洞庭郡への刑徒移送と公田経営は秦の六国統一後の「戦後処理」と統一秦の「新領土経営」を結びつける政策であるが、計画に比して実際は効果が上がっていなかった。本稿の検討結果はある地域における秦の統治過程を検討する際、郡を超える広域的な地域を想定し、検討することが重要であること、その時の歴史的事情が地域のさまざまな「活動」に影響を及ぼすことを示唆する。