著者
小谷野敦著
出版者
文藝春秋
巻号頁・発行日
2005
著者
小谷野 敦
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.38, pp.297-313, 2008-09

田山花袋の『蒲団』については、さまざまに評されているが、中には、伝記的事実を知らず、ただ作品のみを読んで感想を述べるものが少なくなく、また伝記的研究も十分に知られていないのが実情である。本稿では啓蒙的意味をこめ、ここ十数年の間に明らかにされた手紙類を含めて、その成立経緯を改めて纏め、「横山芳子」のモデルである岡田美知代と花袋の関係を纏めなおし、花袋がどの程度美知代に「恋」していたのかを査定するものである。 「蒲団」は、作家の竹中時雄が、女弟子だった横山芳子への恋慕と情欲を告白する内容だが、芳子のモデルは実際に花袋の弟子だった岡田美知代である。発表以後、これがどの程度事実なのか、論争が続いてきた。戦後、平野謙は、「蒲団」発表後も、岡田家と花袋の間で手紙のやりとりがなされていることから、虚構だったとし、半ば定説となっていた。しかし、館林市の田山花袋記念館が一九九三年に刊行した、花袋研究の第一人者である小林一郎の編纂になる『「蒲団」をめぐる書簡集』により、新たな事実が明らかになった。美知代が弟子入りしてほどなく、花袋は日露戦争の従軍記者として出征しているが、この事実は「蒲団」では省かれている。だが、その際美知代から花袋に送った手紙には、恋文めいたものがあった。妻の目に触れるものであるから、花袋は冷静な返事をしていたが、花袋が帰国した後、美知代は一時帰省し、神戸で英語教師をしていた兄の実麿の許にあって、神戸教会の催しで、キリスト教徒の永代静雄と出会い、恋に落ちる。そして神戸を発って東京へ帰るのに三日かかり、途次に静雄と会っていたのではないかと疑われ、美知代が肉体関係を告白したために親元へ帰されるところで「蒲団」は終わっている。 しかし手紙を見ると、永代と知り合ってから、花袋宛の熱っぽい手紙がなくなり、花袋はもとはさほどに思っていなかった美知代に急に恋着を感じ始めたことが、その後の花袋の美知代宛の手紙に恋を歌った詩がいくつかあることから分かる。つまり真相は、美知代からの恋文があったために花袋もその気になったところへ、永代という恋人ができたため美知代の働きかけがなくなって花袋が煩悶し始めたというものであると分かり、「蒲団」は決して虚構ではなかったのである。 美知代は花袋との縁が切れてからは、繰り返し「蒲団」における、主として「田中」つまり永代の描き方に不満を述べているが、晩年には、永代との関西での同衾はなかったと主張している。しかし三日の遅延はうまく説明できておらず、説得力はない。