- 著者
-
小野原 教子
- 出版者
- 兵庫県立大学
- 雑誌
- 若手研究(B)
- 巻号頁・発行日
- 2003
現代の日本において「服」というとき、それは「洋服」を指すのが自然である。日本人の身体を表現するのにふさわしい、民族衣装ともいえる「和服」は、もはやナショナリティを表現するだけに留まらず、そのナショナリティを「遊ぶ」メディアとなっているのではないか。高度情報社会でもある現代資本主義社会においては、身体は社会のなかで衣服という情報を介して行き交い、コミュニケーションを行っている。つまり、衣服を着るという行為は、創造的表現行為の場であったとしても、それは同時に消費され情報化されるファッションというシステムと身体の戦いの場でもあるのだ。現代日本における「着物」(和服)は、伝統や過去を示すその位置づけが雑誌などを中心としたファッション業界で死守されることで、ひとつのコスチューム・プレイのようにも着用される衣装スタイルになっている。それはモチーフとしての「日本」であり、外国人の目で眺めた着物の表現ともいえる。新しい「着物」の着用ともいえる、本来のデザインの解体や素材の変革、また洋服とのコンビネーションなども、新しさや珍しさとをもったひとつのスタイルとして、ファッションというシステムにひとつの語彙として回収されていく。これは、現代日本のファッションにおいてポピュラーな、古典的な英国スタイルを再解釈した「ゴシックロリータスタイル」にも窺うことのできる現象である。そのスタイル「ゴスロリ」(通称)は、18世紀や19世紀のイギリスのファッションを、衣装だけでなく文化や芸術なども学習しながら、その「イギリスらしい」デザインをまったく新しい日本のファッションスタイルへと変形してしまう。(イギリスというナショナリティについては、15年度にすでに論じた)試合の勝敗に加えて、その衣装で観客を魅了できるかどうかが、レスラーの身体表現にとっては死活問題であり、機能や合理さえファッション化/記号化を免れ得ないことを女子レスラーの衣装分析でも明らかにした(16年度)。身体とは、衣服を通して表現される幾つもののアイデンティティの集合体である。本研究の成果として「ナショナリティ」というアイデンティティが、現代日本のファッション現象を読み解くうえで重要な鍵概念であることが示された。