著者
尾崎 耕司
出版者
大手前大学・大手前短期大学
雑誌
大手前大学論集 (ISSN:1882644X)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.43-64, 2012

本稿は、日本の西洋医学導入の過程について、特に明治維新の開始から明治三年に政府がドイツ人医師招聘に踏み切るまでの過程を再検討しようとするものである。西洋医学採用の過程については、従来から分厚い研究蓄積がある。しかし、従来の研究はやや安易に聞き取り史料に頼る傾向があり、実証の面で不十分さが否めなかった。本稿も、史料の乏しさからこれをすべて覆せるものではないが、新たに発見された史料を用いて、少しでも事実関係を明らかにしていこうとするものである。具体的には、『松岡時敏関係文書』や東京大学医学部図書館所蔵文書、関寛斎の『家日記抄』などを手がかりに、日本の西洋医学導入が、まずドイツ人医師招聘ありきではなかったこと。そうではなく、当初学校権判事の松岡時敏や、医学校取調御用掛及権判事の岩佐純、相良知安らが模索したのは、医学校兼病院でのイギリス人医師とオランダ人医師との併用であったこと。この併用計画をイギリス側が拒んだ明治2年5月頃からむしろ相良らによるそれへの排斥が起こり、ドイツ人医師招聘への転換が図られたこと、等があきらかになる。