著者
山下 浩由
出版者
岡山大学大学院文化科学研究科
雑誌
文化共生学研究 (ISSN:18809162)
巻号頁・発行日
vol.3, no.1, pp.181-192, 2005

10年以上にわたって継続した「ミロシェビッチ体制」は、2000年の終わりに崩壊した。これはユーゴスラビア連邦共和国(以下、FRYと略)及びセルビアの民主化にとって、大きな分岐点であった。しかしながら、新政権は前政権から受け継いだ多くの問題に直面していた。そのため、新政権はこの問題を解決してFRYに民主主義をもたらし、その定着を図らねばならなかった。セルビアとモンテネグロ両共和国の連邦再編をめぐる問題は、2000年以降のFRYが直面したこうした解決すべき問題の最もたるものであった。FRYは、1992年4月にセルビアとモンテネグロ両共和国によって設立された。しかし、後にセルビアとモンテネグロは政策の方向性をめぐって対立するようになる。契機となったのは、1997年にジョカノビッチ大統領率いる改革指向の政府がモンテネグロに誕生したことである。これ以来、モンテネグロは、権威主義的傾向を強めるミロシェビッチ体制から離れ、徐々に独立への動きを強めていった。ミロシェビッチは、このようなモンテネグロ政府に対して様々な嫌がらせをを行い、両国関係は悪化していった。では、2000年以降、新政権はこの問題にどのように対応したのか。この問題に対するミロシェビッチとコシュトニツァの対応の違いは、両体制間におけるFRYの民主主義の進展を図る上での大きな指標の一つとなるように思われる。本稿では、2000年以降のFRYの民主化を考察する前段階として、この連邦再編問題が発生した原因と2000年に至るまでの同問題をめぐる基本的経緯を明らかにしたい。以下、本稿では主に三つの時期に分けてこの問題に考察する。第一に、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国(以下、SFRYと略)の崩壊が始まった80年代後半から92年4月のFRYの創設まで。この時期のモンテネグロとそれを取り巻く状況を考察することで、モンテネグロがFRYの創設を選択した理由を探る。第二に、FRYの創設から97年にジョカノビッチ政権が誕生するまで。この時期のモンテネグロを考察することで、モンテネグロがFRYの創設を選択した理由を探る。第二に、FRYの創設から97年にジョカノビッチ政権が誕生するまで。この時期のモンテネグロを考察することで、独立を志向するジョカノビッチ政権が誕生した背景を探る。そして、最後に、モンテネグロにジョカノビッチ政権が成立した時点から、2000年のミロシェビッチ体制崩壊の直前まで。セルビアとモンテネグロの関係は、この時期に最悪の状態を迎えていた。ここでは、コシュトニツァが連邦大統領に就任した時の両国関係を明らかにしたい。