著者
山本 太郎
出版者
岡山大学大学院文化科学研究科
雑誌
岡山大学大学院文化科学研究科紀要
巻号頁・発行日
no.17, pp.117-138, 2004-02

筆者は、倉敷代官役所管下幕府領の重層的・多元的・流動的な地域社会構造を全体的かつ立体的にとらえることを課題にしてきた。そのため、前稿では、地域社会形成の重要な要素であり、その内側から社会構造の性格に影響を与える存在である豪商のひとつとして備中国窪屋群倉敷村の大橋家を取り上げ、その経営内容のいくつかの側面を分析した。本稿では、次の段階として、大橋家と地域社会との関係を実態的に究明することを課題とする。備中幕府領の陣屋所在地で中心的な村である倉敷村の場合、新禄古禄騒動を経て文政11年(1828)に、はじめて新興の豪農商が村役人に就任した。地主小作関係・金融関係などの経済的基礎のうえに、文政11年から、新興の豪農商が行政運営主体の中に入っていったのである。そうした実体の中で、大橋家と地域社会とのかかわりは、いかに変容していったか。具体的には、まず大橋家の政治的地位の上昇過程と地主経営の実体を解明するために、村方騒動と小作騒動への関与を検証する。次いで、幕藩領主とのかかわりの一側面として、経済的援助の実態を検証する。さらに、村内の困窮者への対応の一側面として、救恤活動への参画を検討する。そのうえで、大橋家の発展過程を、政治的地位と経営の両方を視野に入れながら地域社会の中に位置づけてみたい。
著者
内田 豊士
出版者
岡山大学大学院文化科学研究科
雑誌
岡山大学大学院文化科学研究科紀要
巻号頁・発行日
vol.13, no.1, pp.237-255, 2002-03

方向があきらかにしようとするのは明治初期岡山県南部地域における農民層の分解状況であるが、最終的には農村工業の発生過程の解明を目指している。そのため本稿では、明治10年以降に麦稈真田紐や花筵といった製造業の展開をみせる地域の階層分化をあきらかにしようとしている。農村工業の分児島群藤析の前に農民層の分解を解明しようというのは次のような理由からである。農民層分解という語は本来的には「農業における商品生産の進行につれてあらわれる独立自営農民の両極文化-資本家と賃労働者への-を意味している」のであって、こうした経緯を経て農村工業が登場してくるのである。こうした農村工業は本来「封建制解体から、産業革命にいたる時期の中で、その機軸をなすもの」なのである。しかし、周知のように日本における資本の原始的蓄積過程は政府主導によるものであり、「独立自営農民の形成なしに封建小農民がいきなり他律的に商品経済に巻き込まれてゆき、共同体が解体せしめられぬままに、国家権力とそれに結びつく商人・地主層主導の下に資本=賃労働関係が創出される類型」なのである。こうした状況の下に誕生した麦稈真田紐や花筵といった製造業であるが、山田盛太郎氏の言葉をかりれば「特殊的な『惨苦の茅屋』たる零細農生計補充的副業」と評価されている。つまり農業経営を保管する農家副業とされているわけである。このためこうした製造業は日本資本主義発達史研究の対象とされることはなく、産地などの地誌等で取扱われる程度にとどまるとともに、その意義を積極的に問われることはなかったのである。したがって、生産開始当初からこうした製造業が「零細農生計補充的副業」であったのかどうか、或いは本来の農村工業としての発展の可能性を持っていたのではないかという点については、十分な検討が行われてきたとはいいがたい状況にある。そのため本稿では、先に述べた製造業がどのような農民層の分解状況の下で発生するのか、その分解の始点となる明治初期の状況をまずあきらかにしておきたい。その後稿を改めて松方デフレとその後の各製造業の発生状況を解明する予定である。本稿では、まず始めに岡山県浅口群乙島村の近世紀から明治初期にいたる農民層の分解を解明する。この地域は明治20年代に麦稈真田紐生産が展開する地域である。岡山県南部地域には他にも花筵や畳表といった製造業があり、それぞれの産地である児島郡藤戸村、都宇群下庄村および麦稈真田紐産地としてもう1箇所下道群陶村を取り上げてその分解状況を確認しておくことにする。