著者
小畑 隆資
出版者
岡山大学大学院文化科学研究科
雑誌
文化共生学研究 (ISSN:18809162)
巻号頁・発行日
vol.6, no.1, pp.83-106, 2007-03-31

本稿は、「国憲案」について、冒頭で確認した三つの大きな特徴、および、二点につき確認した二元的構成に着目して、枝盛に即してのその意味と連関を解明することを課題とするものである。そのために、本稿は次の順序で検討をすすめていく。まず、枝盛の「天賦自由」論、「民権自由」論、「憲法」論等の骨格が明らかにされた枝盛の主著『民権自由論』(1879〈明治12〉年4月)5の議論を検討する。次いで、枝盛が中心となって編集・執筆に携わった『愛国志林』『愛国新誌』(明治13年3月―明治14年6月)において、それらの議論がどのように展開していったのかをフォローする。そして、『民権自由論』および『愛国志林』『愛国新誌』で展開された議論の一つの総括として、1881(明治14)年8月の枝盛起草の「東洋大日本国国憲案」があることを明らかにする。以上の検討は、同時に、枝盛の「国憲案」の構想が、西南戦争後の、板垣退助=立志社を中心とする、愛国社、国会期成同盟の国会開設運動と密接不可分の関係において形成されてきたものであり、枝盛が関係した政治運動そのもののなかに位置づけられるものであることを明らかにするはずである。
著者
永田 諒一
出版者
岡山大学大学院文化科学研究科
雑誌
文化共生学研究 (ISSN:18809162)
巻号頁・発行日
vol.6, no.1, pp.31-52, 2007-03-31

1.問題の所在 2.「小氷期」の存在とその定量的データを示す自然科学研究の成果 3.気候以外の要因が考えられない事象の例=アルプスの氷河の進出 4.気候が有力な要因と考えらる事象の例=ブドー栽培あるいはワイン醸造 5.「小氷河期」の原因を太陽活動の盛衰に求める自然科学研究 6.まとめと展望
著者
遊佐 徹
出版者
岡山大学大学院文化科学研究科
雑誌
文化共生学研究 (ISSN:18809162)
巻号頁・発行日
no.2, pp.35-47, 2004

周知のごとく、日清戦争敗北後の清末政治思想史は、1898年(光緒24年)の戊戌変法およびそれを政策的に実行に移した1901年(光緒27年)以降の光緒新政に代表される改良論と1905年(光緒31年)の中国革命同盟会の結成を契機に急速に勢力を拡大することになる革命論のふたつの政治論を軸に展開してゆくが、この時期に「世紀」の変わり目や「20世紀」を意識した政治的言説が政治論的立場を越えて大量に語られたことにも注目するべきであろう。
著者
永瀬 春男
出版者
岡山大学大学院文化科学研究科
雑誌
文化共生学研究 (ISSN:18809162)
巻号頁・発行日
no.2, pp.71-87, 2004

近代ヨーロッパはユートピア架空旅行記の数多い誕生を見た。なかでも17~18世紀のフランスは、時代の危機的様相を反映するかのように、その最も多産な国のひとつとなった。17世紀末以降の百数十年間に限っても、フランス一国で書かれたこの種の書物は百点を超えるという。
著者
倉地 克直
出版者
岡山大学大学院文化科学研究科
雑誌
文化共生学研究 (ISSN:18809162)
巻号頁・発行日
vol.1, no.1, pp.137-152, 2003

最近の漂流民研究は、近世人の自他認識を考える上で貴重な成果を積み上げてきているのだが、他方では、漂流民研究が持つ根本的な問題も自覚されるようになっている。それは、漂流記の歴史史料としての問題性である。つまり、一般に漂流記録は、帰国後に漂流民を取り調べた役人や談話の聞き手が記したもので、それがどこまで漂流体験の「真実」を明らかにするものなのか、また、漂流民の意識をどこまで正しく反映しているのか、はなはだおぼつかないのである。しかも、漂流記録の作られ方によって、その問題性の性格や程度もかなり異なることが予想される。漂流記録の史料論を踏まえたうえで、漂流民の自他認識を検討することが求められる所以である。 本稿は、以上のような問題意識に基づき、文政13年(1830)に備前岡山の神力丸がフィリピンのバターン諸島に漂流した事件を取り上げる。この漂流事件の記録については、別に、史料論的な検討を行っており、本稿の記述はその作業を踏まえたものである。また、この神力丸の漂流事件については、最近、臼井洋輔の労作が発表された。 これは、現在のバターン諸島での生活と漂流記の記述とを比較しながら、主に民俗誌的な関心から漂流事件を追体験しようとしたものであり、教えられるところが多い。 本稿では、それと重複しないように、漂流民の自他認識の一旦を紹介してみたい。
著者
山下 浩由
出版者
岡山大学大学院文化科学研究科
雑誌
文化共生学研究 (ISSN:18809162)
巻号頁・発行日
vol.3, no.1, pp.181-192, 2005

10年以上にわたって継続した「ミロシェビッチ体制」は、2000年の終わりに崩壊した。これはユーゴスラビア連邦共和国(以下、FRYと略)及びセルビアの民主化にとって、大きな分岐点であった。しかしながら、新政権は前政権から受け継いだ多くの問題に直面していた。そのため、新政権はこの問題を解決してFRYに民主主義をもたらし、その定着を図らねばならなかった。セルビアとモンテネグロ両共和国の連邦再編をめぐる問題は、2000年以降のFRYが直面したこうした解決すべき問題の最もたるものであった。FRYは、1992年4月にセルビアとモンテネグロ両共和国によって設立された。しかし、後にセルビアとモンテネグロは政策の方向性をめぐって対立するようになる。契機となったのは、1997年にジョカノビッチ大統領率いる改革指向の政府がモンテネグロに誕生したことである。これ以来、モンテネグロは、権威主義的傾向を強めるミロシェビッチ体制から離れ、徐々に独立への動きを強めていった。ミロシェビッチは、このようなモンテネグロ政府に対して様々な嫌がらせをを行い、両国関係は悪化していった。では、2000年以降、新政権はこの問題にどのように対応したのか。この問題に対するミロシェビッチとコシュトニツァの対応の違いは、両体制間におけるFRYの民主主義の進展を図る上での大きな指標の一つとなるように思われる。本稿では、2000年以降のFRYの民主化を考察する前段階として、この連邦再編問題が発生した原因と2000年に至るまでの同問題をめぐる基本的経緯を明らかにしたい。以下、本稿では主に三つの時期に分けてこの問題に考察する。第一に、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国(以下、SFRYと略)の崩壊が始まった80年代後半から92年4月のFRYの創設まで。この時期のモンテネグロとそれを取り巻く状況を考察することで、モンテネグロがFRYの創設を選択した理由を探る。第二に、FRYの創設から97年にジョカノビッチ政権が誕生するまで。この時期のモンテネグロを考察することで、モンテネグロがFRYの創設を選択した理由を探る。第二に、FRYの創設から97年にジョカノビッチ政権が誕生するまで。この時期のモンテネグロを考察することで、独立を志向するジョカノビッチ政権が誕生した背景を探る。そして、最後に、モンテネグロにジョカノビッチ政権が成立した時点から、2000年のミロシェビッチ体制崩壊の直前まで。セルビアとモンテネグロの関係は、この時期に最悪の状態を迎えていた。ここでは、コシュトニツァが連邦大統領に就任した時の両国関係を明らかにしたい。