著者
山田 佳子
出版者
朝鮮学会
雑誌
朝鮮学報 (ISSN:05779766)
巻号頁・発行日
vol.194, pp.91-127, 2005-01

一九二九年、保母として東京へ渡った崔貞熙は、帰国後、三千里杜の記者として執筆活動を開始した。当初は階級問題や女性の階級的覚醒などを扱った記事、随筆を書き、記者としての任務を果たすことに専心していた。目標はあ-まで小説家になることであったが、記者生活は忙しく、文人たちに会って話を聞く機会は訪れなかった。さらに、ジャーナリズムは女性作家に対して随筆の注文ばかりを次々と寄せ、文章を書く余裕はなかった。思うような小説が書けずに焦る気持ちは随筆の主題となって現れた。習作期の小説は、初めは階級間題を主題としたものが多かった。東京滞在中、作家は同胞の悲惨な生活の様子を目にして衝撃を受けており、その体験が下敷きになったと見られる。しかしそれはあくまで小説の素材面に表れるにとどまった。一九三四年からは私小説が書かれるようになる。これはそれまでに書かれた随筆の発展と見られる。また、季節の移り変わりに敏感であることを作家の任務と考えていた崔貞熙は、自然を用いた表現や、「月明かり」 「秋」などの語彙を好んで用いていたが、それらは小説の中の描写において効果を発揮した。登壇作「凶家」はこうした崔貞熙独自の手法から生まれた作品である。のちに書かれる「地脈」、「人脈」、「天脈」は崔貞熙の手法と、ジャーナリズムが要求する主題とが融合した作品である。小説家を志し、ジャーナリズムに傾きがちな記者生活の弊害を憂慮していた崔貞熙は、ジャーナリズムによって小説家になったのである。