著者
藤井 賢二
出版者
朝鮮学会
雑誌
朝鮮学報 (ISSN:05779766)
巻号頁・発行日
vol.185, pp.73-112, 2002-10
著者
森 克己
出版者
朝鮮学会
雑誌
朝鮮学報 (ISSN:05779766)
巻号頁・発行日
no.14, pp.545-556, 1959-10
著者
中村 拓
出版者
朝鮮学会
雑誌
朝鮮学報 (ISSN:05779766)
巻号頁・発行日
no.39, pp.530-458, 1966-04
著者
三枝 寿勝
出版者
朝鮮学会
雑誌
朝鮮学報 (ISSN:05779766)
巻号頁・発行日
no.137, pp.p47-113, 1990-10
著者
波田野 節子
出版者
朝鮮学会
雑誌
朝鮮学報 (ISSN:05779766)
巻号頁・発行日
no.139, pp.p71-101, 1991-04

この小論で考察するのは、李光洙の中学時代を中心とするごく初期の作品である。現在まで李光洙の初期創作については多くの研究がなされているが、それらはすべて中学と大学の二度にわたる留学時代を一括して論じており、中学時代だけを別に扱ったものはみあたらない。しかしながら、あいだに五山学校と大陸放浪をはさみ、思想的な変転のきわめて激しい、いわば李光洙の「疾風怒涛」ともいうべきこの時代は、もっと詳しい時期区分による考察を要すると思われる。とりわけ李光洙が自我に目覚め、文章行為を開始した明治学院中学時代は、作家の原点としてもっとも変更な時期であるにもかかわらず、従来軽視されてきたと言わざるをえない。本稿では全集に未収の作品も含めて李光洙のこの時代の著作を検討し、それらを通して現れてくる自我覚醒の様相から、李光洙の作家としての出発点の世界観を明らかにしていきたい。本稿で対象とする作品は、一九〇八年五月から一九一〇年八月までの二年三ケ月のあいだ、すなわち李光洙が明治学院中学四年生と五年生、および中学卒業後に五山学校で合邦を迎えるまでに発表した作品である。
著者
波田野 節子
出版者
朝鮮学会
雑誌
朝鮮学報 (ISSN:05779766)
巻号頁・発行日
no.143, pp.p57-107, 1992-04

李光洙は自分が明治学院中学時代にどのような奮物に接したか、どの作家のどの作品に感銘をうけたかを、いくつかの回想録に書きのこしている。本稿ではそれらの作品を具体的に調査し、その中で李光洙にもっとも強い印象を与えたと思われる作家と作品を明らかにし、それらが李光洙の最初期作品にどのような形であらわれているかを考察することで、中学時代の李光洙の世界観に近づこうと試みた。李光洙が中学時代の終わりころもっとも心酔していたのは、先輩の洪命憙のすすめで読んだ詩人バイロンであるが、その受容は日本主義者木村鷹太郎の日本語翻訳と解釈を媒介としていた。日清・日露戦争のはざまの明治三〇年代に日本がおかれていた状況を反映する木村の危機意識は、李光洙の祖国が直面していた独立の危機と重なりあって李光洙に深い感銘をあたえ、それはやがて五山で合併をむかえたときに、李光洙が生存競争の非情を痛感して進化論を真理として受け入れる下地を準備することになった。一方、木村のバイロン解釈は、日本留学中の魯迅にも強い印象をあたえた。バイロンがうたった強大な意志力を、国民に独立の気概をあたえる詩人の叫びとして功利的に考えた点は、木村も李光洙も魯迅も共通している。しかし、日露戦争の勝利で列強に並んだと自認した日本では「バイロン熱」は急速に色褪せ、進化論の「力の論理」を受け入れた李光洙が祖国を強者にするための準備論へと進んだのに反し、日本留学以前すでに進化論にであっていた魯迅は、人間の絶対的な意志による進化論克服の道を模索していった。
著者
波田野 節子
出版者
朝鮮学会
雑誌
朝鮮学報 (ISSN:05779766)
巻号頁・発行日
vol.199, pp.191-230, 2006-07

洪命憙の歴史小説『林巨正』は一九二八年から一九四〇年まで中断を繰り返しながら新聞と雑誌に連載された。筆者はその連載期間をつぎの三期に分けた。一九二八年から翌年の逮捕収監までの第一期、一九三二年の連載再開から三年後の病気による中断までの第二期、そして一九三七年の再開から一九四〇年後の完全中断までの第三期である。洪命憙は第二期の『義兄弟編』を執筆している途中、その当時復刻された朝鮮の正史『朝鮮王朝実録』と出会ったが、とりあえずそのまま書き続けて『火賊編』以降でこの正史を小説の材源として取り入れ、連載が完全に終わって『林巨正』を単行本にするときに、前に書いた『義兄弟編』を後で書いた『火賊編』の内容に合わせて修正したと推測される。筆者は第二期の記述に見られる時間の食い違いに疑問をいだき、原因を突きとめるためにこの時期の新聞連載と単行本のテキス卜を対校した。残念ながら原因を解明することはできなかったが、代わりに、単行本では消されて連載本テキストにだけ残された、作家の試行錯誤や推敲の跡を見出すことができた。本稿ではまた、『火賊編』冒頭の歴史的記述が、単行本にするさいに挿入されたものであることも明らかにした。この挿入は第三期における作家の創作姿勢を示唆するように思われる。
著者
山田 佳子
出版者
朝鮮学会
雑誌
朝鮮学報 (ISSN:05779766)
巻号頁・発行日
vol.194, pp.91-127, 2005-01

一九二九年、保母として東京へ渡った崔貞熙は、帰国後、三千里杜の記者として執筆活動を開始した。当初は階級問題や女性の階級的覚醒などを扱った記事、随筆を書き、記者としての任務を果たすことに専心していた。目標はあ-まで小説家になることであったが、記者生活は忙しく、文人たちに会って話を聞く機会は訪れなかった。さらに、ジャーナリズムは女性作家に対して随筆の注文ばかりを次々と寄せ、文章を書く余裕はなかった。思うような小説が書けずに焦る気持ちは随筆の主題となって現れた。習作期の小説は、初めは階級間題を主題としたものが多かった。東京滞在中、作家は同胞の悲惨な生活の様子を目にして衝撃を受けており、その体験が下敷きになったと見られる。しかしそれはあくまで小説の素材面に表れるにとどまった。一九三四年からは私小説が書かれるようになる。これはそれまでに書かれた随筆の発展と見られる。また、季節の移り変わりに敏感であることを作家の任務と考えていた崔貞熙は、自然を用いた表現や、「月明かり」 「秋」などの語彙を好んで用いていたが、それらは小説の中の描写において効果を発揮した。登壇作「凶家」はこうした崔貞熙独自の手法から生まれた作品である。のちに書かれる「地脈」、「人脈」、「天脈」は崔貞熙の手法と、ジャーナリズムが要求する主題とが融合した作品である。小説家を志し、ジャーナリズムに傾きがちな記者生活の弊害を憂慮していた崔貞熙は、ジャーナリズムによって小説家になったのである。
著者
八幡 一郎
出版者
朝鮮学会
雑誌
朝鮮学報 (ISSN:05779766)
巻号頁・発行日
no.49, pp.435-456, 1968-10
著者
鶴園 裕
出版者
朝鮮学会
雑誌
朝鮮学報 (ISSN:05779766)
巻号頁・発行日
vol.156, pp.97-128, 1995-07
著者
野間 秀樹
出版者
朝鮮学会
雑誌
朝鮮学報 (ISSN:05779766)
巻号頁・発行日
vol.199, pp.37-81, 2006-07