- 著者
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川口 雅昭
- 出版者
- 人間環境大学
- 雑誌
- 藝 (ISSN:1348124X)
- 巻号頁・発行日
- vol.1, pp.1-9, 2003-03-20
安政元年三月、吉田松陰はペリー刺殺を目的とした下田事件をおこし失敗する。しかし、その松陰が五年後には、「通信通市は天地の常道に候」と、一八〇度ともいうべき変容を見せるのである。その主因の一つは、和親条約締結以来、我国の属国化という危機状態は進捗しているという焦燥感であり、他は「西洋各国にては世界中一族に相成り度き由」とか、「遮て外と交を結ばざる国は取除かる由。取除きには干戈に非ざれば得ざるは固よりなり。(中略)二百年前葡萄牙・西斯班人御放逐なされたる頃と只今とは外国の風習大いに異なり」などという、国際社会の的確な認識による、国際感覚の成長であった。その間、彼は対話による日米間の懸案解決策さえ提案している。吉田松陰は、現在においても、幕末期における日本型原理主義の代表の一人のような先入観で語られることが多い。しかし、彼は上述したような柔軟な国際感覚を持ち合わせていたのである。今後、このような観点も念頭において松陰研究を進める必要があると考える。