著者
川端 有子
出版者
愛知県立大学
雑誌
紀要. 言語・文学編 (ISSN:02868083)
巻号頁・発行日
vol.36, pp.1-15, 2004-03-30

A Lady of Quality is said to be a sensation novel unique amongst Burnett's work, though written in 1896 when the boom for the genre was almost over. Moreover, unlike typical sensation fiction, the story is set against a 17th century background, and appears as a pseudo historical romance. But the central motif and theme of the novel, a protest against patriarchal oppression fuelled by the power of the unconventional heroine Clorinda, share the same concern as those novels by Mary Braddon and Mrs Henry Wood. However it is not enough to read this novel as focusing only on the beautiful crossdressing wild heroine. She has a shadowy double, her sister Anne, who represents the weak, feminine, submissive angel. Repressed and subjugated, Anne always looks at her strong willful sister, admiring her power and observing her love affair from afar. On the surface of the story, she looks like a saintly innocent, but a close reading reveals that she is not at all "the proper feminine" as Lyn Pyckett calls it, for she is carefully constructed as a bookworm, or a romance reader, and therefore knows "strange things", which makes her transgress the sphere of angelic existence. In this paper I will examine how the proper versus improper spheres of femininity are deconstructed, by focusing on Anne as a romance reader. It will be clear that the true sensationalism of the story exists not in the secret murder by Clorinda, but in the imperative of the dying Anne to keep the crime secret. Reading the subtext centering Anne will exemplify how she has developed as a subjective reader, and achieved her heart's desire in her own way. Sister Anne's reading is then interpreted as a strategy to make this story a meta-romance: a romance about the meaning of reading romance.
著者
三浦 玲一 川端 有子 戸田山 みどり 渡辺 美樹
出版者
一橋大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2003

戸田山の日本における『ちびくろサンボ』の受容史研究から、児童文学の評価においては、「優れた」作品であることが、(児童文学として)「教えるに値する」という価値観/イデオロギーと密接に繋がっていることが示された。渡辺の考察は、このことと関連して、児童文学においては、先行する作品から断絶することで成立する独創性(オリジナリティ)の重視が比較的希薄なこと、同時に、ある種の作品においては、児童文学のコンヴェンション/規範に積極的に依拠しようとする姿勢が見られ、それが評価されていることを調査した。非政治的な「美学的価値」や作者の「オリジナリティ」の虚構性は、いわゆる文学研究においても(多くの論争を巻き起こしながら)既に指摘されている点である。本研究は、そのような性質が、より明示的、あからさまに承認されている場としての「児童文学」を対象とした。個々の作品がその固有性としてもつ、オリジナルな美学的価値とは、20世紀初頭のいわゆるハイ・モダニズムの時代に、芸術としての文学という体制が確立すると共に、自明視されることになる。エレイン・ショウォールターの著作に代表されるような、歴史的なジェンダー研究は、このハイ・モダニズム体制の成立を、文学が(性的な含意を伴った)「表現」として認知される過程と同時進行し、それゆえ、このような美学の成立は、世紀転換期のジェンダー配置の転換と、密接に結び付いていることを示唆している。三浦および川端の研究は、クィア理論以降の拡張されたセクシュアリティの理解から見るとき、児童文学のテクストとみなされるものも亦、セクシュアリティ、ジェンダーの力学から構成されており、そこでは、「児童文学」であることからむしろ積極的に、伝統、規範に依拠しようとしつつ、そのことでむしろ逆説的に、転覆的なジェンダーを描くこととなった諸作品のありようを考察した。
著者
川端 有子
出版者
愛知県立大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2005

本研究は、十九世紀イギリスの児童文学-雑誌読み物、宣教文学、冒険小説、家庭小説など-における、アングロ・インディアン(在印英国人)の子ども像を抽出し、イギリスと植民地インドの歴史的関係のコンテクストにおいて、二つの文化の狭間に宙吊りにされた子どもたちの文化変容の過程、そしてその経験がより広い文化現象のなかにどう位置づけられるかを探るものである。本報告書で分析の対象とした作品は、フランシス・ホジソン・バーネットの『小公女』、『秘密の花園』、ルーマ・ゴッデンの『河』、メアリー・ノートンの『床下の小人たち』であるが、それと同時にその背後に存在した、いまはもう忘れられた作品、『六歳から十六歳』『女王さまのために』『黄金の沈黙』との相互関係も考察した。さらに、現代の作品である『煙の中のルビー』、『バラの構図』などにも言及し、アングロ・インディアンの子どもという設定が、現実的なものから文学的装置となっていく過程を追った。この研究はまた、異人種間のみならず、男性・女性、異なる階級間、おとな・子どものあいだに働いている不均等な力関係をも明らかにしていくことになる。今後もさらに、ゴッデンのほかの作品や、M.M.ケイ、ポール・スコットなどアングロ・インディアンであった人々の作品や、声を上げ始めたジャミラ・ギャビンなど、インド人作家の作品を通して探っていきたいテーマである。というのも、21世紀にはいっても、なおかつオリエンタライズされた「インド」イメージは廃れていないからである。