著者
廣野 聡子
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2008, pp.91, 2008

<B>1.はじめに</B><BR> 私鉄系のデベロッパーは、高度経済成長期以降、住宅地の郊外拡散を背景に自社沿線の宅地化を進めてきた。その代表的な開発手法の1つが、組合施行による土地区画整理事業を主導し、その事業代行を通じて保留地を獲得するというものであった。<BR> この土地区画整理事業を用いた郊外住宅地開発は、保留地を処分して事業費を捻出するなど事業採算性を土地の売却益に依存しており、地価の上昇が事業を後押ししてきた点は否めない。このため、バブル経済が崩壊し、主に住宅地に供される大都市圏郊外での地価上昇が見込めなくなると、こうした開発手法そのものが大きな岐路に直面せざるを得なくなる。このような問題意識のもと、相模鉄道(相鉄)いずみ野線・ゆめが丘駅周辺地域(横浜市泉区)を事例として、バブル経済崩壊に伴う社会的・経済的な変化の下で、従来型の沿線開発手法がどのような課題に直面しているかを検証したい。<BR><B>2.研究対象地域</B><BR> 相鉄いずみ野線・ゆめが丘駅周辺地域(横浜市泉区)は東京都心から40km圏に位置し、東京駅からの所要時間は約1時間である。<BR> いずみ野線は、横浜市南西部の交通不便地域の利便性向上と、輸送力が限界に達しようとしていた東海道線のバイパス路線確保を目的として計画され、1976年に二俣川(横浜市旭区)からいずみ野(同市泉区・4駅6.0km)が開業して以来、1990年に第2期延伸・いずみ野からいずみ中央(1駅2.2km)、1999年には第3期延伸・いずみ中央から湘南台(神奈川県藤沢市・2駅3.1km)と、およそ20年をかけて段階的に延伸開業した路線で、ゆめが丘駅は1999年に開業した。相鉄は、3期にわたる延伸区間の駅周辺で、土地区画整理事業を用いた住宅地開発を進めてきた。にもかかわらず、現在のゆめが丘駅周辺一帯は市街化調整区域のままであり、駅周辺には商業施設や大規模な住宅地は見られない。いわば「従来型沿線開発の限界」を示す空間といえる。<BR><B>3.研究の概要</B><BR> いずみ野線の新設に際して、相鉄は沿線の宅地開発を計画し、東急電鉄「多摩田園都市」の開発手法を踏襲する形で1972年より沿線7地区で順次土地区画整理組合を立ち上げ、合計354haの住宅地を開発した。<BR> 一方、第2期・第3期の延伸区間は、横浜市の総合計画「よこはま21世紀プラン」(1981年発表)に基づく「いずみ田園文化都市構想」として開発が計画された。この「いずみ田園文化都市構想」は、いずみ野線新規延伸区間の沿線約280haを開発区域とし、良好な住宅地・文化施設などを設け、当地域を都心と県央地域を結び付ける拠点地域とする計画で、開発手法は相鉄を事業代行者とする土地区画整理事業の方式が想定されていた。<BR> 1980年代前半に計画されたこの構想は、バブル経済の崩壊にともなう社会的・経済的な変化の中で見直しを余儀なくされ、1995年、開発区域はゆめが丘駅周辺の約25haのみとなり、大幅に縮小される。しかし、駅の開業から約10年が経過した今日でもなお、この土地区画整理事業は事業化の目処が立たず、駅前には農地が広がっている。<BR> このゆめが丘駅周辺地域の開発が失速した背景として、地価の下落によって計画当初の地権者への水面下での提示価格の維持が困難になり土地区画整理事業の事業化が行き詰まったこと、またバブル崩壊以降、財政悪化に直面した地方自治体が都市開発の民間依存を強める一方、資金力やブランド力が相対的に弱い私鉄系デベロッパーの一部が地方自治体の要請に応えきれなくなった点を指摘することができる。本発表では、これらの点について具体的なデータをふまえつつ検討する。<BR>
著者
廣野 聡子
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.48, 2013 (Released:2013-09-04)

本論では植民地期において官線と同様の規格を持った唯一の私鉄である台北鉄道を事例に、その特徴と性格について明らかにする。台北鉄道は、台北と台北郊外の新店を結ぶ台車軌道をその前身とし、1921年に官設鉄道と同様の軌間1067mmで敷設された鉄道であり、相対的に旅客輸送のウェイトの大きい鉄道会社であった。鉄道の成立は、当時台湾総督府が民間資本の導入によって縦貫線と接続する地域鉄道網を整備する姿勢を持っており、そうした思惑のもと総督府が台湾の内地人企業家や資本家に働きかけた結果である。台北鉄道は10km程度と路線が短く鉄道収入の飛躍的な伸びは中々期待できない中で、世界的な恐慌や災害など不運も重なって経営は低迷する。1930年代初頭には総督府による買収が議論される厳しい局面を迎えたが1930年代半ばからの経済成長を追い風に鉄道の営業成績は向上し、1941年頃には借入金を完済、そして1945年の日本敗戦により国民政府に接収されて歴史を終えるのである。 ただし旅客数は開業初期から比較的堅調に伸び、その後1930年代後半の大きな成長をみることから、台北鉄道の性格を見るうえで台北の都市発展との関連性に着目する必要があろう。 蔡(1994)は、台北の都市内には台湾人と日本人の間で居住分化が見られたこと、また職業面でも公務員や商業で日本人が多く、台湾人は工業従事者の割合が高いことを指摘しているが、台北鉄道沿線の内地人比率を見ると竜口町87.3%、川端町80.0%、古亭町66.5%と極めて内地人比率の高い地域が存在する。沿線地域全体で見ても相対的に日本人が多く住む地域であった。これら日本人は公務員・商業などホワイトカラー職に就く者が多かった点を踏まえると、台北鉄道沿線は台北市内でも相対的に通勤通学人口を多く抱えていたことがわかる。その上で台北鉄道における旅客一人当たりの平均運賃を見ると、開業当初は15.2銭であったのが、1937年には7.7銭 と、輸送の実態が短距離輸送へと変わっていったことが確認できる。 植民地期の私設鉄道の特徴は貨物輸送の大きさであるが、台北鉄道は相対的に旅客の割合が高く、台北と郊外とを結ぶ鉄道として台北の都市拡大の影響を強く受け、通勤通学輸送が卓越した都市鉄道としての性格を強く持っていた。 ただし、その沿線は日本人が多く居住する地域であったため、地域社会に根ざした鉄道というよりも、日本人利用の多い支配階層のための鉄道という性格は免れなかったものと思われる。