著者
村瀬 啓
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.130, no.1, pp.39-65, 2021 (Released:2022-01-20)

戦間期の帝国日本において、朝鮮総督府や満洲国といった外地政府は中央政府(内地政府)の介入を拒絶するほどの自律性を持ち、内地政府はそれらの外地政府に影響力を及ぼし、あるいは交渉することを繰り返し試みた。帝国日本におけるこうした内外地間の政治過程についてはある程度の研究蓄積があるものの、大恐慌の克服とブロック経済の構築のため、外地政府との協調の重要性が増した満洲事変後の政治過程については、未解明の部分が多い。本稿は、1930年代において内地政府が朝鮮総督府および満洲国と交渉し、帝国大の経済政策を形成する過程を検討するものである。分析に際しては、特に激しい利害対立が内外地間で見られた農業政策に注目する。したがって本稿は、内地政府のうち農林省が植民地政府と展開した交渉の過程を跡づける。 1930年代前半、農林省はまず朝鮮総督府との米穀統制をめぐる対立に直面した。恐慌下で米価の低落に喘ぐ農村を擁護するために、農林省は朝鮮からの米穀移入を抑制しようとした。しかし結果的には、農林省の試みは朝鮮総督府の強い反対と拒否権の前に挫折することになる。農林省にとって、総督府との二者間交渉によって自らの主張を通すことは困難だったのである。 他方で農林省は、満洲国に対しては自らの利害を主張することができた。まず農林省は、日満産業統制委員会における満洲開発政策の形成に参画した。同委員会は商工省や資源局といった複数の省庁によって構成されており、それゆえに農林省は多省間調整が可能であった。さらに農林省は、満洲産業開発五ヶ年計画の策定にも参加することができた。 こうした過程を経て、農林省は満洲国との協調関係を構築していった。日中戦争が勃発すると、農林省はこの協調を基に、自らの利害を盛り込んだ帝国大の農業政策を構築し始めるのである。