- 著者
-
松浦 茂樹
- 出版者
- 一般社団法人 日本治山治水協会
- 雑誌
- 水利科学 (ISSN:00394858)
- 巻号頁・発行日
- vol.64, no.6, pp.1-18, 2021-02-01 (Released:2022-05-09)
- 参考文献数
- 7
利根川の大分派川・江戸川は,1911(明治44)年度からの改修計画でその役割を大きく変えた。それまでの計画では,分派点上流での計画対象流量3,750m3/sのうち約26%の970m3/sが江戸川に分流され,河道工事を行う計画はなかった。だが,1910年の大出水後,分派点上流の計画流量は5,570m3/sに増大されたが,そのうち約40%の2,230m3/sが江戸川へ分流されることとなった。そして河道の拡幅とともに,流頭部にあった棒出しが撤去され,水閘門が設置された。江戸川工事費は,利根川改修工事費全体の約29%に及んだ。1911年度の計画改訂当時,利根川下流部では改修事業が行われていて,一部は竣工,一部は工事中であった。江戸川新計画策定のため,案として計画流量 1,400m3/sと2,230m3/sが比較検討された。計画流量を増大したら,それだけ 川幅は拡げなくてはならない。江戸川上流部では台地による狭窄部があり,また下流部では人家密集地があった。このため,計画流量を増大させることには工事費の観点から抵抗があった。だが,利根川下流部で手戻り工事をさせないためには江戸川計画流量を増大させねばならない。この結果,「心ならずも」 2,230m3/sと決定された。江戸川河道工事の重要な課題として舟運路の安定があった。水閘門は,そのために設置されたのである。1947(昭和22)年カスリーン台風による利根川氾濫による大水害後,利根川計画流量は分派点上流で14,000m3/sとされ,そのうち江戸川上流部では 5,000m3/sとされたため,再び河道拡幅が行われた。埼玉県西宝珠村の密集地が河道とされたが,西宝珠村から強い反対の声があがった。だが,建設省は住民側の要求をすべて受け入れるとして,用地買収が行われ,工事は進められた。