著者
松浦 茂樹
出版者
Japan Society of Civil Engineers
雑誌
土木史研究 (ISSN:09167293)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.73-83, 1991-06-05 (Released:2010-06-15)
参考文献数
17

利根川と荒川で囲まれている埼玉平野は、近世の江戸幕府にとって重要な生産拠点であった。近世、埼玉平野では開発が進められていくが、ここにはまた、出土品である鉄剣から金象嵌銘文が発見され、近年、古代史に大きなインパクトを与えた埼玉古墳群がある。本稿は、河川との関わりが深い水田開発と舟運整備に焦点をあて、埼玉古墳群を支えた生産基盤を考察するとともに、家康入国時までの開発状況を論じたものである。埼玉平野の安定した開発には大河川利根川・荒川の洪水対策が不可欠であるが、古代の技術では防禦することができず、氾濫を前提として開発が進められ、「不安定の中の安定」という状況になっていた。開発は少しづつ進められていくが、利根川防禦に重要な役割を果たしたのが中条堤と、それに続く右岸堤である。この地域の拠点として忍城が整備されたのが1490年である。また綾瀬川筋から元荒川筋へという荒川付替が、さらに利根川水系の舟運の整備が、後北条家の時代に既に行われていた。家康は、決して未開の地ではなく、かなり整備が行われていた状況で関東に移封されたのである。
著者
松浦 茂樹
出版者
一般社団法人 日本治山治水協会
雑誌
水利科学 (ISSN:00394858)
巻号頁・発行日
vol.62, no.1, pp.28-71, 2018-04-01 (Released:2019-05-31)
参考文献数
13

綾瀬川は,埼玉平野の中央部を流れ,その開発と深く関わっている。今日では備前堤直下からの流れとなっていて,その上流の元荒川と分離されているが,元々は荒川が流下していた。戦国時代になって,備前堤と一体的に慈恩寺台地が開削され,荒川は元荒川筋に転流した。 備前堤の存在を前提にし,下流部では開発が進められた。近世になると,用水源として元荒川からとともに見沼溜井から導水されたが,享保年間には見沼代用水路が整備された。 備前堤には,荒川とともに利根川の氾濫水が襲ってきた。このため備前堤で防御され,その増強を図る下流部と,湛水するためそれを阻止しようする上流部との間で厳しい軋轢が生じた。大洪水のときには上流部は堤防切崩しを行い,自らの水害を少なくしようとした。両者間で堤防の高さを決めるなど調停が図られたが,近世では解決に至らなかった。 近代になると,利根川・荒川では国直轄により改修が進められ,それを背景に埼玉県は綾瀬川改修を行おうとした。だが下流部は東京府内を流下する。下流部を改修しないと埼玉県内では進められない。府県間で対立となったが,結局は,かなりの費用を埼玉県が負担し,埼玉県で事業は進められた。
著者
松浦 茂樹
出版者
Japan Society of Civil Engineers
雑誌
土木学会論文集 (ISSN:02897806)
巻号頁・発行日
vol.1991, no.425, pp.213-220, 1991-01-20 (Released:2010-08-24)
参考文献数
13
被引用文献数
1

The national government has carried out projects for flood control since “the River Act” was enacted in 1896, when Yodo River improvement work started. The civil engineer, who mainly made the plan and led the work was Dr. Tadao Okino. But Mr Johannis de Rijke, who was a Dutchman engaged by the national government of Japan, had already investigated Yodo River to make the plan. In this report, the comparison between the idea of Okino and that of de Rijke was studied. Okino adopted the peak flood discharge proposed by de Rijke as design flood discharge. Besides the floodway plan in the lower part of the basin in Osaka Prefecture was laid by de Rijke. However we found the large difference between the two plans. That was how to deal with the retarding basin in the middle part and Biwa Lake in the upper part of the basin. Okino constructed the intake weir in the channel out of Biwa Lake and changed the retarding basin into the protected lowland.
著者
松浦 茂樹
出版者
一般社団法人 日本治山治水協会
雑誌
水利科学 (ISSN:00394858)
巻号頁・発行日
vol.65, no.4, pp.1-36, 2021-10-01 (Released:2023-01-11)

明治から今日までに治水を目的とする利根川改修計画は,7回策定された。 1886(明治19)年着工の計画,1900(明治33)年着工,1910(明治43)年着工,1938(昭和13)年着工,1949(昭和24)年着工の計画である。さらに1980 (昭和55)年着工,2005(平成17)年改訂の計画である。 これらを基準点である中田(栗橋)の計画対象流量でみると,1886(明治19)年の計画では定められず,1900(明治33)年計画では3,750m3/s,1938(昭和13)年計画では9,200m3/s,1949(昭和24)年計画では14,000m3/s(ただし上流山地部ダム群で3,000m3/sを調節)となった。1949(昭和24)年計画で,ダム群による調節が登場したのである。 1980(昭和55)年計画,2005(平成17)年計画でもダム群による調節が行わ れ,前者の計画では,6,000m3/sをダム群で調節し17,000m3/sであり,後者の計画では,5,500m3/s調節し17,500m3/sとなっている。 なぜこのように変遷していったのか。1949(昭和24)年計画までは計画直前に生じた洪水(既往洪水)を参考にしたのに対し,1980(昭和55)年と2005 (平成17)年の計画では,年超過確率によって机上計算をもとに定めていった。 計画手法が異なったのである。また,1949(昭和24)年計画までは既往洪水を参考にしたといっても,1938(昭和13)年・1949(昭和24)年計画ではピーク流量の最大値に基づいて定めていったのに対し,それ以前の計画では異なっていた。1886(明治19)年計画では,対象とする洪水がそもそも小さかった。 1900(明治33)年計画では,最大流量ではなく,それより小さい流量を対象と したのである。
著者
松浦 茂樹
出版者
水利科学研究所
巻号頁・発行日
no.211, pp.41-63, 1993 (Released:2011-03-05)

3 0 0 0 OA 利根川東遷

著者
松浦 茂樹
出版者
一般社団法人 日本治山治水協会
雑誌
水利科学 (ISSN:00394858)
巻号頁・発行日
vol.46, no.2, pp.23-48, 2002-06-01 (Released:2018-03-14)
参考文献数
18
著者
松浦 茂樹 趙 揚
出版者
一般社団法人 日本治山治水協会
雑誌
水利科学 (ISSN:00394858)
巻号頁・発行日
vol.53, no.4, pp.43-72, 2009-10-01 (Released:2017-08-30)
参考文献数
16
著者
松浦 茂樹
出版者
一般社団法人 日本治山治水協会
雑誌
水利科学 (ISSN:00394858)
巻号頁・発行日
vol.64, no.6, pp.1-18, 2021-02-01 (Released:2022-05-09)
参考文献数
7

利根川の大分派川・江戸川は,1911(明治44)年度からの改修計画でその役割を大きく変えた。それまでの計画では,分派点上流での計画対象流量3,750m3/sのうち約26%の970m3/sが江戸川に分流され,河道工事を行う計画はなかった。だが,1910年の大出水後,分派点上流の計画流量は5,570m3/sに増大されたが,そのうち約40%の2,230m3/sが江戸川へ分流されることとなった。そして河道の拡幅とともに,流頭部にあった棒出しが撤去され,水閘門が設置された。江戸川工事費は,利根川改修工事費全体の約29%に及んだ。1911年度の計画改訂当時,利根川下流部では改修事業が行われていて,一部は竣工,一部は工事中であった。江戸川新計画策定のため,案として計画流量 1,400m3/sと2,230m3/sが比較検討された。計画流量を増大したら,それだけ 川幅は拡げなくてはならない。江戸川上流部では台地による狭窄部があり,また下流部では人家密集地があった。このため,計画流量を増大させることには工事費の観点から抵抗があった。だが,利根川下流部で手戻り工事をさせないためには江戸川計画流量を増大させねばならない。この結果,「心ならずも」 2,230m3/sと決定された。江戸川河道工事の重要な課題として舟運路の安定があった。水閘門は,そのために設置されたのである。1947(昭和22)年カスリーン台風による利根川氾濫による大水害後,利根川計画流量は分派点上流で14,000m3/sとされ,そのうち江戸川上流部では 5,000m3/sとされたため,再び河道拡幅が行われた。埼玉県西宝珠村の密集地が河道とされたが,西宝珠村から強い反対の声があがった。だが,建設省は住民側の要求をすべて受け入れるとして,用地買収が行われ,工事は進められた。
著者
松浦 茂樹 藤井 三樹夫
出版者
Japan Society of Civil Engineers
雑誌
土木史研究 (ISSN:09167293)
巻号頁・発行日
vol.14, pp.61-76, 1994

1875 (明治8) 年、第1回地方官会議が開催され、ここで「堤防法案」が審議された。治水は河身改築・砂防工事等を主とした「預防ノエ」と、築堤を主とした「防禦ノエ」とからなり、地域で工事を行なうことが難しいときは、前者は内務省、後者は地方庁で行なうと政府から提案された。工事費については、地租の改正に従って新たな制度の整備を図るが、治水は一地域に限られたものであって、その地域で負担するのを原則とし、それが困難なとき国から補助すると規定された。しかし「堤防法案」は、政府原案を修正した上で成案をみたが、制定には至らなかった。ただし淀川では、太政官の指令によって土木寮分局が設置され、その事務規程中、成案をみた「堤防法案」の工事執行、費用分担と類似した規定が設けられた。<BR>1878 (明治11) 年、地方財政制度が確立され、治水事業は地方庁で行なうのが原則とされた。当初は下渡金という名の補助金があったが、1881年に打ち切られた。これ以降、大河川での「預防ノエ」以外は地方庁で行なわれることとなったが、地方庁の財政が逼迫し、容易に進まなかった。このため内務省は、補助制度の確立を目指し、1887 (明治20) 年頃には、一定の成果を得た。また、木曾川等では、国直轄の河身改修、県負担の築堤が合わさって大規模な事業が着手された。<BR>1896 (明治29) 年、「河川法」が制定されたが、それは「防禦ノエ」を国直轄で行なうものであった。それまで「預防ノエ」のみ直轄で行なっていたが、淀川流域を中心とし、地域からの「防禦ノエ」に対する国直轄施行の要望が強まり、いよいよ国として「防禦ノエ」に乗り出さざるを得なくなり、新しい制度が必要となったのである。
著者
松浦 茂樹
出版者
水利科学研究所
雑誌
水利科学 (ISSN:00394858)
巻号頁・発行日
vol.40, no.6, pp.94-119, 1997