著者
林 昇太郎
出版者
北海道開拓記念館
雑誌
一般研究(C)
巻号頁・発行日
1995

山形市内およびその周辺に現存する義川斎と文嶺の作品調査を実施した。写真撮影を行い、文嶺の作品の内すでに写真撮影のすんでいるものとあわせ、ふたりの作品を集成した。つだ、山形市史編纂史料など江戸時代の山形城下に関する文献史料や義川斎と文嶺ゆかりの寺社の古文書などを調査した。義川斎の作品として、小白川天満神社の絵馬や竜門寺山門の天井画などを確認した。これらの寺社は山形市内では代表的な寺社である。また、1820(文政3)年に出版され、当時の山形城下周辺の観光案内書ともいうべきものである『湯殿山道中一覧』をてがけるなど、山形城下では相当需要の高い絵師であったことがうかがえる。一方、文嶺の作品について、道内のものはすでに確認したところであるが、山形市内においては、代々紅花商を営む旧家や庄屋であった旧家など当時の有力者の家に伝わる作品を確認した。さらに、義川斎・文嶺がともに山形城下周辺の有力者が興じていた俳句会に参加していて、その俳句集の挿絵を描いていることも判明した。また、山形城下に店を構え、紅花を中心に扱っていた近江商人のひとりで、1821(文政4)年に松前にわたり、後に小宿となる山形屋八十八と親交があったことが、山形市史編纂史料から見つかった。山形八十八との関係は、文嶺が松前に移り住む背景となっていることが考えられる。
著者
林 昇太郎
出版者
北海道開拓記念館
雑誌
奨励研究(A)
巻号頁・発行日
1993

幕末期の松前を中心に活動した画家,早坂文嶺の経歴については,これまで、河野常吉による「松前藩の画師なり。奥州福島の人にして,弘化中松前藩に仕へ士籍に列す。最も仏画を善くす。其の蝦夷人を描くときは,殊に二司馬の号を用ふ。即ち夷語ニシパ,貴人の義,に採るなり。子元長は,明治元年正議派の一人たり」以上のことは不明であった。ただし,文嶺を四条派の画家である前川文嶺(1837・天保8年〜1917・大正6年)とする指摘があり,すでに資料目録など一部でそのように記載したものもみられた。しかし、本研究において、文嶺は1797(寛政9)年に生まれ、1867(慶應3)年に享年71歳で没したことや、松前に移り住む前に山形城下の旅籠町で表具屋を家業としていたこと、さらに,文嶺の父は山形市内に作品が相当数現存かる画家で、義川斎定信などと号していたことなどが判明した。作品については,文嶺の活動の本拠地であった松前町をはじめ青森県風間浦村やさらにはアメリカ合衆国ブルックリン美術館所蔵資料をふくむ24点を確認することができた。その中で年紀を有する作品は7点あり、それらは弘化および安政年間であった。これまで、文嶺はおもにアイヌ絵の作者として紹介されることが多かったが,アイヌ絵以外にも仏画や武者絵など,その画題は幅ひろい。画風としては,狩野派や浮世絵の影響が顕著であるが、四条派などの画風も見受けられる。ひとつの流派に位置づけることはかなりむずかしいが、技量的にはけっして低くはないと思われる。