著者
山田 悟郎
出版者
北海道開拓記念館
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2005

14世紀から18世紀の、23個所の集落跡から検出された作物種子、17個所の畠跡、6遺跡から出土した鉄製農具の検討から、次のことが明らかになった。(1)14世紀から18世紀初頭の遺跡から鋤・鍬といった鉄製農具が出土しており、アイヌ民族は18世紀初頭まで鉄製農具を使用した広幅の畝からなる畠を造成していた。(2)該当期の畠跡は、アイヌ民族によったことが明らかな土地の傾斜に関係なく各方向に畝を造り、同じ台地上で場所を変えながら小規模な畠を継続していたものと、東北地方のアラキ型焼畑との関係を示す、傾斜地に火入れを行い傾斜に沿って縦畝を造成したものや、溝だけの畠を造った二つのグループに区分でき、後者はアイヌ民族によったものではなく、東北地方北部から渡道もしくは季節的に渡道した和人によったものと考えられる。(3)炭化種子が出土した大部分の遺跡からヒエとアワを主とした14種類の作物種子が出土しており、特にヒエが多く出土し、アイヌ民族の伝承にもあるようにヒエとアワが重要な作物であったことが判明した。(4)擦文文化期にはアワとキビが主要作物であったが、14世紀以降主要作物からキビが脱落して、ヒエとアワが主要作物となるが、その背景には気候の悪化があったものと考えられる。(5)18世紀末には川原端で、農具を使用せず木の股や刀子で土を耕して畠を造った姿が描かれているが、その要因として「シャクシャインの戦い」以後の松前藩によった刀狩り、鉄の供給制限、鉄製品の粗製化と、交易形態が「場所請負制度」に変わり、アイヌ民族の労働力の収奪が行われた結果と考えられる。
著者
山田 悟郎
出版者
北海道開拓記念館
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
1998

平成13年度は、平成12年度に続き畠跡が発見された八雲町栄浜2遺跡と、平成13年度に畠跡が発見された隣接した栄浜3遺跡、北海道北端の稚内市声問川右岸2遺跡で発見された畠跡の調査を行い、畝断面に切り返しされた痕跡が存在するか否かの観察を行うとともに、花粉分析や浮遊選別用の土壌試料を採取した。切り返し跡が確認できたのは栄浜3遺跡の畝跡だけで、同遺跡の畝跡では3回の切り返し跡が確認でき、最低でも3年間は耕作が継続されていたことが明らかになっている。他の2遺跡の畝跡では切り返しの痕跡が確認できなかったことから、単年度の耕作が行われただけであったことが明らかになった。採取した土壌試料からは、野生植物の花粉や種子を検出することが出来たが、栽培種の花粉や種子はまだ発見されていない。また、石狩低地帯の千歳市内に分布する18世紀以前のアイヌ文化期遺跡の調査を行い、その下位には例外なく擦文文化期の遺物包含層や住居群が存在すること、同遺跡での断絶はみられず、擦文文化がアイヌ文化に移行した様子が伺える。擦文時代の雑穀が出土している同市末広遺跡、ユカンボシC13遺跡、ユカンボシC2遺跡、オサツ2遺跡、メボシ遺跡でも、上位にアイヌ文化期の遺物包含層や住居群が存在し、やはりそこから雑穀種子が出土している。出土した種子をみると、擦文文化の遺構ではアワ、キビが主となった作物コンプレックスが、上位のアイヌ文化期の遺構では、ヒエ、アワが主となった作物コンプレックスが確認でき、擦文文化から雑穀農耕は継続されたものの、主要作物の一つであるキビがヒエに置き操わったことが明らかとなった。
著者
山際 晶子
出版者
北海道開拓記念館
雑誌
若手研究(B)
巻号頁・発行日
2012-04-01

本研究の調査で明らかとなった18件の「義経蝦夷渡伝説図」を一覧に整理した。そのうえで、各図を絵の内容ごとに三つのグループに分類した。すなわち、蝦夷地に渡る義経一行を描いた図、義経一行と蝦夷人の合戦を描いた図、義経と彼に敬意をはらう様子のアイヌを描いた図、の三つである。この三つ目のグループに属する作例は、主に、北海道と関わりの深い作者の手によるもの、北海道の神社に所蔵されるものであり、この図は北海道で独自に発展し、定型化したとみられる。さらに画像の分析から、この図は、義経以外の伝説的な人物を描いた図を参考にして、生み出された可能性が高いことが明らかとなった。
著者
畑山 義弘
出版者
北海道開拓記念館
雑誌
一般研究(C)
巻号頁・発行日
1987

今回, 殖民軌道の調査をしたことにより次のことが明らかになった. 殖民軌道は, 北海道第1期拓殖計画末期の大正13年に取上げられ, 根室の厚床より標準に至る約80km, 軌間762mmの根室線が最初であった. これを「北海道殖民軌道」と呼んだ. 軌道は国費によって北海道各地に施設され, 36の線が運営された. (昭和2年の第2期拓殖計画では47線, 407km).設置については, 軌道法第32条により特許申請は不要で, 設置する官庁(農林省)が主務大臣と協議してなされていた. しかしこの制度で実施されたのは根室と枝幸の2線だけであった. 昭和20年以降, 北海道緊急開発計画の樹立にともない, 名称を「北海道簡易軌道」と改称し農林省の所管となり, 国有機関車, 軌道の保全のため国が費用を補助していった.また軌道の新, 改良は北海道開発局が担当し, 北海道知事がその管理者となり, 昭和28年からは, 管理運営に関しては, 北海道庁と各町村が委託協定を結び一切の管理運営を各町村が行うようになった. しかし昭和46年3月をもって国の補助(土地改良法による補助)が打ち切られ, また道路網の発達により自動車が急速に普及し, 軌道の利用が減少, 施設の老朽化にともない経営が困難となっていった. このため昭和46年12月, 浜中町営軌道を最後に北海道から消えていった.また今回の調査で軌道の運営と利用について確認されたことは, 当初は利用者が「移住者世話所」に申出て承認を受ければ無償で軌道の使用ができたが, その後計画輸送と自主的管理運営の必要から利用者を組合員とする運行組合に委託, 組合は使用料を徴収して維持費用にあてた. ただし根室線, 枝幸線は軌道法32条により直営運輸線として国が直営していた. この他軌道の営業実績, 地域の変ぼうについては資料の整理分析が終了次第明らかにしてゆきたい.
著者
野村 崇
出版者
北海道開拓記念館
雑誌
一般研究(C)
巻号頁・発行日
1989

1.樺太・千島出土考古資料の集成国内の研究機関(同志社大学・国立民族学博物館・明治大学・日本大学・東北大学・市立函館博物館・北海道大学農学部博物館・北海道開拓記念館・帯広百年記念館等)に所蔵する樺太・千島出土の考古資料の写真、実測図による集成をおこない、それらの形態、寸法、出土状況、時代等を付記した集成資料を作成した。2.樺太・千島関係考古学文献目録の作成明治以降、現在までの日本語文献約300点、ロシア語文献約50点を収録した文献目録を作成した。3.北海道東北部の先史文化と樺太・千島の先史文化との比較研究北海道と樺太の関係においては、旧石器時代には共通性が多く、北海道産の黒曜石が樺太に持込まれている。縄文期においては、北海道からの影響は少ないが、続縄文期、オホ-ツク文化期においては相互の交流があり、同一文化圏を構成していた。また、樺太に従来ないとされていた擦文土器をクズネッオボI遺跡において確認した。千島との関係では、国後、選択両島以南において、縄文中期以降、北海道とほぼ同じ文化が展開したことがわかった。5.樺太出土黒曜石の年代および産地の同定樺太のド-リンクスI遺跡(旧落合)およびポロナイスク(旧敷香)地方ザパドナセV遺跡で出土した黒曜石を、フィッション・トラック法による年代測定・産地同定をおこなった。前者は北海道白滝産で、現在より13.900年前という測定値、後者は白滝および置戸産と判明した。5.樺太中部におけるサルゴリ文化の確認アム-ル河下流域の新石器時代末〜青銅器時代初頭にかけてのサルゴリ文化が、樺太中部ポロナイスク地方まで南下したことを確認した。
著者
氏家 等 村上 孝一 出利葉 浩司 小林 考二 矢島 睿
出版者
北海道開拓記念館
雑誌
一般研究(C)
巻号頁・発行日
1987

積雪地帯における伝統的有形民俗資料の比較研究調査は, カンジキと除雪具を対象に青森県, 岩手県, 福島県, 秋田県, 山形県, 富山県, 石川県, 福井県, 長野県, 北海道を中心に調査を行った.カンジキは, いわゆる竹を曲げた単輪型が本州における共通した形態であった. 中でも新潟県山間部, 北陸地方を中心に分布するスカリとその類似型は最も大型のカンジキであり, スカリの上にさらに小型のカンジキをはくといった重複型は, 豪雪地帯における最も大きな特色であった.これに対し, 北海道では前輪と後輪で構成するいわゆる複輪型のカンジキが主流であった. また, 新潟県山間部から移住した人々の場合も, 単輪型のカンジキよりも複輪型カンジキを使用している. このことは, 両地域における雪質の相異が最も大きな要因と考えられる.北海道アイヌが使用したヒョウタン型カンジキは, 岩手県北部, 青森県南部にも分布していた. しかし, この関連性については, 今回の調査でも解明できなかった. また, 八戸市是川遺跡出土のカンジキは, カンジキであるかどうかが問題であり, これらの問題を解明するてがかりにはならなかった. 本州における除雪具は, 一枚板で製作する雪ベラ, コスキ(木鋤)が主流であった. 柄が2m前後ある長いものは, 岩手県から北陸地方の山間部にみられ, 屋根の雪おろしに使用するものであった. また, 日本海沿岸部, 山間部の雪ベラは, ブナ材を使用することも大きな特色であった.これに対し, 北海道では, 箱型状の雪ベラが主流であった. また, 1枚板のコスキを使用していた人々も移住後は箱状の除雪具を使用している. これらの要因もやはり雪質の相異によるものと考えられる.
著者
山田 伸一
出版者
北海道開拓記念館
雑誌
奨励研究(A)
巻号頁・発行日
2000

今年度は主に、『日本外交文書』や外務省外交史料館所蔵史料など外交関係史料の調査と、北海道立文書館所蔵の開拓使文書・佐藤正克日記(北海道立図書館所蔵)や阿部正己文庫(鶴岡市立図書館所蔵)中の松本十郎関係文書の分析を進めた。既往の研究の成果を基本的には再確認し事実関係をより詳細に把握できた諸点以外に、今回特に確認できたのは次の点である。なお、樺太アイヌの石狩地方移住後の状況については分析が十分に進んでおらず、今後に課題を残している。1)1875年の樺太千島交換条約の交渉過程においては、先住民族の帰属をめぐる問題は無視されていたに等しく、条約締結後の東京での日露間の交渉で、先住民族にのみ国籍と居住地の合致を義務づけることを再確認したものである。2)樺太アイヌの対雁への移住は、アイヌ自身の意向や開拓使札幌本庁の意見を押し切って開拓長官黒田清隆が断行したものである。3)移住に際して開拓使は、樺太で漁業経営を請け負っていた商人とアイヌとの間の慣習や人間関係を利用しつつ、アイヌと商人との関係の断絶・官への直接の依存を図っていった。4)北海道へ移住させられたアイヌの樺太への帰還は、1905年の日露講和条約以前から活発だったが、郷土で生計を立てようにも日本国籍を持つ故に漁業経営から制度的に排除される点で不利な立場に置かれる一方、北海道へ移住しなかったアイヌは比較的有利な立場にあった。南樺太が日本領になるとその立場が逆転する。1875年の条約締結時に同民族内に生じさせられた分断は、日本領時代は日本岡籍の有無の差として存在し、長く影響を与えた。
著者
矢野 牧夫 小田島 和平 丹治 輝一
出版者
北海道開拓記念館
雑誌
一般研究(C)
巻号頁・発行日
1992

北海道開拓記念館に保存されている第2次世界大戦時の朝鮮人強制連行関係資料の整理分類と労働実態の調査を目的として研究を進めた。この研究によって得た新たな知見は、次のとおりである。1.連行者名簿の整理分類ーとくに住友金属鉱山,北海道炭鉱汽船(北炭)関係資料、日曹天塩炭鉱関係資料の整理分類を行い、強制連行された朝鮮人1,200名の連行者リストを作成した。これにより連行者氏名,年令,職業,本籍,連行時の居住地などを詳細に明らかにすることができた。2.強制連行関係資料の整理分類ー連行にあたっての現地における労務者の割当と募集状況,輸送計画および渡航状況,受入先での稼動状況,管理対策,稼動中の騒擾事件,逃亡状況,就業中の災害被災状況,慰安事業および馴化のための協和会組織などに関する資料の整理分類を行うとともに、それらの具体的事項を調査し,一連の強制連行,強制労働の経過を明らかにすることができた。3.強制労働が行われた現地の状況調査ー各鉱山は閉山後、かなりの年数を経過し、連行者が就労した事業所,収容された施設などはすでに存在していないが,各地に死亡者の墓碑,慰霊碑などが残存しており13箇所においてそれらの調査を行った。4.強制連行関係者からの聴取調査ーとくに、金属鉱山関係者から強制労働の実情を聴取することができた。それらは労働形態,就労内容,労務災害などに関する具体的内容であり,上記2の内容を補充するものであった.5.研究成果の公表ー研究成果の公表については,平成5年度の北海道開拓記念館研究年報および北海道開拓記念館調査報告に登載し一般への公表を行う。
著者
添田 雄二
出版者
北海道開拓記念館
雑誌
若手研究(B)
巻号頁・発行日
2008

本研究では,北海道における小氷期の実態とそれに伴う自然災害の特徴を地質学的・考古学的手法によって明らかにし、それが自然界や人間社会に与えた影響についてまとめた。小氷期の北海道は寒冷化の影響によって、顕著な海退が起きていた。特に17~19世紀は、低地でも地下深部まで凍結していた。度重なる大雪や低温は、自然界の資源を減少させ、狩猟採集に大きく依存したアイヌ民族に深刻な影響を与えた。
著者
小林 幸雄
出版者
北海道開拓記念館
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2006

縄文時代の繊維質胎漆製品である"赤い糸"は、糸の製作技術、漆などの膠着材や彩色用赤色顔料などの素材、さらには工程全体に関わる技術などが体系的に具現化されている。それらの技術内容には、縄文時代の人々の生活や文化を復元する上で有効な情報が含まれている。本研究では、縄文時代の"赤い糸"を自然科学的手法によって具体的に検討し、製作技術に関わる材質や技法などの知見を得ることができた。
著者
寺林 伸明
出版者
北海道開拓記念館
雑誌
一般研究(C)
巻号頁・発行日
1994

1.満州拓殖政策の企画・立案・実施の経過、満蒙開拓青少年義勇軍の募集・訓練・入植・開拓営農の実施経過、および第一次義勇軍の創設から開拓団終焉にいたる経過等に関する基本文献・資料の収集をした。2.第一次鏡泊湖義勇隊開拓団の関係者団体、「鏡友会」会員192名に対して、応募の事情、訓練・開拓・営農の体験、従軍および敗戦後の現地収容あるいはシベリア抑留等の体験を聞いたうえで、現在どのように考えているかなど多角的にアンケート調査を実施した(8〜10月)。3.アンケートの実施結果は、回答数46(うち2名死去のため不明)、転居先不明10、無回答136で、有効回答数は44(22.9%)だった。なお、アンケート調査時に無回答だった2名については、その後の聞き取り調査で面談でき、回答がえられた。4.アンケート結果によって第二次の聞き取り調査をおこなうため、9〜10月に回答内容について仮集約作業をおこない、聞き取り対象者を抽出した。5.11月、兵庫県・長崎県在住の元1次義勇隊員と鏡泊学園関係者など、9名の聞き取り調査を実施した。あわせて、関係者から鏡泊学園の関係印刷物を収集した。6.2月、愛知県・千葉県・埼玉県在住の元1次義勇隊員・補充団員・農業指導員など、4名の聞き取り調査を実施した。あわせて、関係者から『満州開拓史』、鏡友会の『鏡泊の山河よ永久に』および会員有志の『賭けた青春』、満州国農事試験場関係者の文集等々を収集した。7.札幌郡広島町、上川郡愛別町在住者2名の聞き取り調査を実施した。
著者
出利葉 浩司 宮武 公夫 財部 香枝 矢口 祐人 宮武 公夫 財部 香枝 矢口 祐人
出版者
北海道開拓記念館
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2006

明治年間に北海道を訪問し、アイヌの人びとに出会った西洋人とくにアメリカ人が残した記録類について、「出会い」という視点からながめてみることが本研究の目的である。日記、書簡類などのうち、ハイラム・ヒラー書簡、ロミン・ヒチコック講演草稿、セントルイス万国博覧会におけるフレデリック・スター収集資料記載情報については、翻刻、翻訳し、公表することができた。また、セントルイス万国博覧会、ロンドン万国博覧会をめぐる人類学的問題について、調査された資料をもとに、それぞれ論考をまとめることができた。
著者
林 昇太郎
出版者
北海道開拓記念館
雑誌
一般研究(C)
巻号頁・発行日
1995

山形市内およびその周辺に現存する義川斎と文嶺の作品調査を実施した。写真撮影を行い、文嶺の作品の内すでに写真撮影のすんでいるものとあわせ、ふたりの作品を集成した。つだ、山形市史編纂史料など江戸時代の山形城下に関する文献史料や義川斎と文嶺ゆかりの寺社の古文書などを調査した。義川斎の作品として、小白川天満神社の絵馬や竜門寺山門の天井画などを確認した。これらの寺社は山形市内では代表的な寺社である。また、1820(文政3)年に出版され、当時の山形城下周辺の観光案内書ともいうべきものである『湯殿山道中一覧』をてがけるなど、山形城下では相当需要の高い絵師であったことがうかがえる。一方、文嶺の作品について、道内のものはすでに確認したところであるが、山形市内においては、代々紅花商を営む旧家や庄屋であった旧家など当時の有力者の家に伝わる作品を確認した。さらに、義川斎・文嶺がともに山形城下周辺の有力者が興じていた俳句会に参加していて、その俳句集の挿絵を描いていることも判明した。また、山形城下に店を構え、紅花を中心に扱っていた近江商人のひとりで、1821(文政4)年に松前にわたり、後に小宿となる山形屋八十八と親交があったことが、山形市史編纂史料から見つかった。山形八十八との関係は、文嶺が松前に移り住む背景となっていることが考えられる。