- 著者
-
大栗 行昭
- 出版者
- 宇都宮大学
- 雑誌
- 奨励研究(A)
- 巻号頁・発行日
- 1994
本研究の課題は,明治維新期に小作料がどのような経緯,方法で決定されたのかを考察し,そのような地代を収取する地主的土地所有はどう範疇規定されるべきかを展望することであった.研究代表者は,全国の町村が作成した『大正十年小作慣行調査』のうち,埼玉県と新潟県蒲原地方のものを閲覧・収集し,次のような理解を得るに至った.明治前期の小作料には,幕藩体制下の小作料をそのまま継承したものと,明治8,9年の地租改正実施の際に改定されたものとがある.埼玉では後者が多く,蒲原では両者相半ばした(明治21年の地価改定時に改定した村もあった).蒲原では,旧藩時代の小作料は収穫米の6割ないし2/3(領主1/3,地主1/3)であった.地租改正時に改定された場合についてみると,埼玉県では台帳上の収穫米高から2〜3割を控除して改定されたものが多く,蒲原では台帳上の収穫米高から1割5分〜4割(3割ないし3割3分が多い)を控除して改定された.明治初年の小作料は,幕藩体制下のそれの重みを継承し,「押付反米」と称された反収の6〜8割(中心は7割)に及ぶ高率現物小作料であった.ちなみに,地租改正「地方官心得」の地価検査例第2則における小作料率68%は,当時の慣行的な小作料水準ではないという見解があるが,本研究は「小作料率68%」が当時の実態に近いものであったと認識する.地主的土地所有の性格を規定するに当たっては,このような高率現物小作料が村落共同体的な強制力の存在のもとで決定され,維持されていた(小作料滞納に対しては,村内での小作禁止,戸長の説諭などの手法がとられた)ことに注意を払う必要があろう.